奈良へ

てめえは息抜きしないと生きていけないのか、

っていわれそうですが、その通り、生きていけません。どんなに体力のある人でもめんかぶりでクロール50メートルは無理ですってそれは息継ぎですが、とくに去年末から2月の中ごろにかけて正直しんどくて、いくつか抱えてる問題の小さなひとつにめどがついたので、休みをもらって息抜きをしてました。家で休んでるのも一つですが、あんまりものごとを考えたくなかったので仕事終えた後に必要最小限のものだけもって、大阪行きのバスに乗り込んで、奈良へ。
○遡及日誌第一日目
春日大社

春日社へおまいり。ここに祀られてるタケミカヅチが鹿島からシカにのってきたので、シカにゆかりの深いところです。
でもって、この時期に鹿寄せ、という催事があります。それを飛火野で見学してました

鹿愛護会の方がホルンをふくと

飛火野・春日社近辺のシカがホルンの音色に誘われてぞくぞくとやってきます。

集まってきてくれたご褒美にふるまわれたドングリを一心不乱にがっつくシカの皆様の図
それを見学していた↓三十路の男のケツを狙うオスのシカ

どすん、とバックを攻撃されて振り向いたらこの表情
そこでほんとは振り向いちゃいけなかったのかもだけど、そうすると、あっやだそこはやめて、ってなところにちょっかい出され、数歩さがったりするたびにくっついてきて、

数分じゃれあい↑たぶん満足したのかやっと立ち去るオスのシカ
シカは好きなんすけど、シカに好かれてもなー(となりのおばちゃんは笑ってたんすが)。
唐招提寺

近鉄電車で尼ヶ辻へ。

金堂です。平成に入ってから大修理をしています。阪神大震災のあとたぶん地震が来たら耐えられないだろう、という予測のもと修理をはじめたのですが、その大修理のドキュメントをこの冬にやってまして、ちょっと実物をみたくなったのです。余談になりますが伝統建築は今の日本人にはブラックボックスで、番組を見てる限り大修理もほんと大変だったようです。たとえば修理前に竹中の建築部門の構造解析の専門家が計算して柱がこれだけ倒れてるのではないかという数値と、実際に実測した数値が異なってました。現代技術は天平時代の技術が理解できてないところがあったわけです。そのあと日本独特の伝統建築の要素を加味して計算しなおして補強・修理を行ってます(その業績で竹中は建築学会から賞をもらってるはず)。構造のほか、この建物、日本で建てられたものでありながら実はわからないことが多く、たとえば新築年がわかりませんでした(弟子の如宝が建てたことはわかってたのですけど)。解体してる時に年輪測定できそうな部材は片っ端から調べ上げ、781年+αごろじゃないか、ってな結論が出てます。鎌倉・江戸期や明治時代に改修をしてますが、どういう改修をしてたのかもわかってきました。奈良時代から江戸時代までは2,5mほど屋根が低かったようで、江戸期に屋根を急にしたこともわかってます(およそ雨漏り対策)。
で、創建当初の部材がわりと生きてます。コンクリも頑丈ですが、木もそれ以上に頑丈なんだよなー、ってのを思い知らされる建物です。

基本的に文化財なのでそこにある部材を極力残す方法で再建が図られてまして、柱も一部が使い物にならなくても、残った部分を生かします。写真真ん中にある柱、途中で継がれてるのがわかりますか?

屋根は曲線なんすが、柱は直線です。反り具合が美しいなあ、って個人的に思えちまう建物です。それと軒が相当外に張り出してるのがわかるかも。

こちらは平城宮の東朝集殿という建物を移築した講堂。ここは志ある僧侶に戒律を授けたり学問を教授するための寺だったので、中古でよいところはそのまま中古で済ませたのです。なにが大事かって言ったら外観よりも内容なのかもしれません。でもって地味なんすけど、それでもよく残ってるなあ、という印象があります。

唐招提寺でしばしぼんやりしてました。あたりまえのことなんすけど、奈良時代からこの空間、変わってないってことが、なんだか不思議だなあ、って感じられたんすが。
【纏向】
尼ヶ辻から天理経由で桜井線の巻向という駅へ。纏向遺跡、ってのがここのところよくとりあげられるのですが、駅のホームはたぶん纏向遺跡の一部の上にあると考えられます。去年発掘してたのが、「鉄道用地に入らないで」という看板の向こうあたり。たぶん桜井線の下にもなにか眠ってるかも。

じつはこのあたり40年近くにわたって広大な範囲で少しずつ調査がはじまってます。ほかの場所と違うのが、ここからでてくるものは生活臭があまりないのです。いままで高床式建物の遺構や大量のベニバナの花粉がでたり、鍬(農耕具)より鋤(土木用具)が圧倒的に多くでたり、ってなことがあったんすが、駅のそばでは建物の遺構のほかに桃の種が2000個近く、壊れた銅鐸の破片ほかが出てきてます。ひょっとして祭祀的な施設があったのではないかってな説が有力ですが、もちろん確定したわけではありません。素人考えでは、桃がそれだけあったってことは、酒を造ってたのではないのん?ってなきもするんすけどそれはともかく。

向こうに見えるこんもりした山が箸墓古墳です。誰が葬られてるのかは正直わかりません。卑弥呼がここら辺にいて、邪馬台国はここらへんにあったんじゃないかってな説もありますが、どうなんすかね。ちなみにそばには三輪山があります。


埋め戻されてるところをみてもしょうがないんすが、次の電車まで散策してました。いまさらなんすけど、ここらへんの古代史はきらいじゃなかったりします。
四天王寺
遅い昼飯を桜井でとったあと、大阪に戻って四天王寺

四天王寺にはここ数年、仕事以外で大阪にくるときはなるべく立ち寄ってます。なにがあるってわけではないのですが、私にとって重要な場所だったりします。

この日は大阪に宿泊。
悲しいかな日頃の疲れがどっと出ちまい、早めに就寝。
○遡及日誌第二日目
【飛鳥・苑池遺構】
偶然新聞を読んでたら飛鳥で苑池の発掘現場の公開のニュースが目に入ったので、最初からノープランの旅だったので、飛鳥へ向かうことに。ちなみに6時起床で、7時出発なのにもかかわらず、いつもと違ってまったく世の中を呪うこと無く起床できました。楠田(仮)は遊びのためなら本気出す子です。

行ったのは飛鳥板蓋宮跡の北西の苑池遺構です。実は夏にも来てます。
10年ほど前から調査が続けられてるのですけど、飛鳥川に隣接して池が二つあって、

↑現況はこんな感じですが南側にあったものは深さ1メートル、60メートル四方の観賞用の池で(観賞用の池からは戦前と平成になってから石造物が出土してて戦前のものは京都の野村家の別荘に、平成のものは橿原の考古学研究所に展示されてます)埋め戻されてますが池の底には石が敷き詰められてました。
もうひとつの北側の池は深さ3メートル、南北55メートル東西35メートル、さらに幅10メートルの飛鳥川に接続する水路つきの池、ということがいままでわかっていました。

今回は北池です(芝生の部分が南池、判りづらくて恐縮ですが石がごろごろしてるのが北池の岸辺)

↑これが池の北岸と東岸の角の部分。人の頭の大きさくらいの石が積み上げられてます。堆積物に埋まってますが池底にもやはり石・砂利が敷き詰めてあるようです。
でもってなぜかはなぞなのですが、東側の岸辺には

こんなふうになってる部分と

階段状になってる部分があります。なんでなのかはわかりません。池に入ってく階段なのか。

池から離れた地点ではずっと砂利敷きであった痕跡が見つかってます。

真ん中の溝は後世、田んぼであったときについた溝なんすけど、端に見えるのが高低差14cm程度、幅50㎝程度の石組の溝のようなもの。橿原考古研作成の現地で配布の資料では、塀や建物の雨水を受ける溝ではないか、と仮説を立ててます(ということはこの池のそばに建物があったのかな、と。いらぬ想像を掻き立てることを書いておくといままでこの池の跡からは調剤の木簡がでてたりします)。


日曜ですが、橿原考古研の方が作業を続けていらっしゃいました。でもって、気軽に質問オッケイですよ、ってなことなので、お話をけっこう伺ってきました。
飛鳥京は流れる水路が張り巡らされてたらしく、地形的に緩やかに北に傾斜してるのですがその終着点がここであったはず、池からも水が湧き出てたようでその地下水の機能を利用して池には一定の水位があり(もちろん防火を意識してたはず)、さらには飛鳥川に接続してますからその洪水から飛鳥京を守るための調整池的な役目もあったのではないかという説をNHKでやってたのを覚えてたのですが、階段を見てたらほんとに調整池なんかな?って思えてきたので調整池なんすかね、ってな疑問をぶつけたらうーん、と唸ったあと、ほんとに調整池なのかどうかはもう少し調べないと、ってなお話でした。
で、最大の疑問は資材をどっから運んだのだろ、ってことなんすが、実はやはりそこまでははっきりしてないようです。が、そばの飛鳥川の石・砂利ではないようで、飛鳥時代には遠く離れた天理から飛鳥へかなり石を運んでて香久山のふもとからは運河もあったのですけど、資材をここまでどうはこんだかは今後の調査の検討課題になるようです。
ちなみに飛鳥川ってこんな感じなんすが、

どこをどういうふうに流れてたかまでは、ちょっと特定しにくいらしかったり。
【飛鳥・亀形石造物】
どうせならと足を延ばしたのが亀形石造物です。万葉文化館という施設のそばにあります。四天王寺の方に見学されては、といわれてたところ。

左から、(丸い凹型の)亀形石造物、凹型小判形石造物、砂岩でできた導水施設です。想像できると思いますが、水がまず小判形に落ち、そのあと亀型石に流れます。亀っていうよりすっぽんかも。これがなんなのか、よくわかってません。
これによく似たものが四天王寺にあります。四天王寺の場合は亀井堂というところに異なる形をした二つの亀形の石造物があり、亀の頭から水が吐き出され、もう一つの水槽状の亀型石造物が受け、そこに経木を流すのです。考えすぎかもしれないのですが、なんだか関連性を考えちまう施設なんすが。関連性といっても水が湧き出しやすい(四天王寺は地下水脈の上に建ってます)ところであるのと亀形石があるよー、ってなことぐらいなんすけども。

ちなみにここらへん、実際に天理の石がつかわれてます。
さきほど天理の石を運ぶための運河ってことを書きましたが

埋め戻されてますが飛鳥坐社のそばで幅約10m、深さ約1,3mの溝が発掘されてます。日本書紀斉明天皇の時代に俗に「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」とよばれる天理の石を運ぶための水路を掘った記述があるんすがその運河じゃないか、って説があります。狂気の沙汰のような工事だったらしいんすけど、あったらあったでなるほどなんとなく飛鳥時代の物流が理解できなくもないです。石だけでなく資材や食糧や薪なども運べたでしょう。日本史の中でも個人的にインフラ整備とか物流が気になるほうだったので、目で見て自分の中ではなんとなくパズルのピースが一つ埋まりました。
もっともそんなこと考えてもなんの役にも立たないのですが。
【橿原考古研博物館】
ここも夏に来てるのですが、再訪問。奈良における考古学研究の拠点の一つです。

主に奈良県から出土した資料をもとに私のような考古学のどシロートにもわかりやすく解説がされてます。疑問に思うことがあったとしても、解説の方が答えていただけるのがありがたかったり。たとえば木の物流なんすが、東大寺の再建時に材木を鹿児島からどうやって運んだのか、なんて説明をうけてました。
出土してなくても複製品があったりします。

たとえば修羅↑
修羅の下に丸太をかませておき、ソリ状の上に運びたい資材を置き(いうほど簡単な作業ではなかったとおもうのですけども、たとえば水路をいったん止めて底に修羅をおいたあとに水を改めて貯め、修羅の上に水運で運んできた資材を載せて水を抜き、綱で引っ張る)運ぶ道具です。

日頃の業務と関係ない分野なんすが、ちょっと興味深かったり。高校生の時に来てたら進路変えてたかも、ってなところです。
【白鹿】
夏は伏見へ行ったので、今度は灘へ行こう、と考えて、西宮へ。

駅で酒蔵がどこにあるかみて、目に入ったのが白鹿です。
実際行ってみて判ったのですが、ここは海にほど近かったりします。さらに西国街道がそばを通り(米の集荷に適してる)、良い水がでるので酒蔵が軒を連ねた地域となりました。海が近い、ってのはどうも重要なポイントのようで、安価な燃料は四国から調達し、できた酒はそのまま港から江戸へむけて出荷でき、伏見や伊丹にくらべコストを抑えることができたわけです。

あとは飲み比べるとなんとなくわかるのですが、灘は酸の多い辛口です。よく男酒、っていいますが、自己主張のある酒です。逆に伏見のほうは呑みやすい、料理にあうような、酒です。ほんと好き好きなんすが、「ああ、酒飲んでるな」っていう自己主張のあるほうが、市場を席巻したのかなあ、なんてことを試飲させてもらいながらぼんやりかんがえてました。
【宝塚】
歌劇を見に来ました

ってのは大嘘で、温泉でここ数か月の疲れをとってました。
○遡及日誌第三日目
阪急電車で京都入りして建仁寺へ。

目当ては限定公開中の織田信長の弟である有楽斎が晩年を過ごした正伝院という塔頭です。有楽斎は信長亡き後、秀吉に仕え、さらに家康に仕えて関ヶ原は東軍なのですが、大坂冬の陣では秀頼側につき、夏の陣の前に京都に隠棲した武将です。武将、というより茶人としてのほうが有名かもしれません。

正確には二つの塔頭を合わせて正伝永源院という名前になってます。小屋のようなものは復元された如庵という茶室。本物はいまは名鉄がもってて犬山にあります。
もちろん本物もあります。有楽斎が作った楽茶碗とか武野紹鴎茶杓とかがならべられてて、マジっすか?ってつぶやいたくらいなんすが。でもって、そういうものを間近にみると(あたりまえのことかもっすが)その人の確かに生きていた証を見ているような気になって、息づかいというか体温のようなものが伝わってくるような気がします。400年弱の時間が経過しているのに、現在とその時代がもの凄く強く結びつけられるというか、はるか遠いはずのものが、突然距離が縮まる感覚に陥ります。

正伝院は井上靖の「本覚坊遺文」にでてきて、主人公である本覚坊と有楽斎が茶や死生観について語ってます。もちろんそれは井上さんの考えかもしれませんし、三井寺の本覚坊なる人がいたとしてもそんなことを考えてたかはわかりません。ただなんとなく私は本を読むとき日常接する人と同じように作中人物の性格から思考を学んで考え方を修正したりしてます。たとえ会うことがあり得ない人でも、読み返すたびに、それを通じてさまざまなことを語りかけてくれる様な気がしてます。井上さんの本は大学生時代から捨てるに捨てられない本です。で、井上さんの本に思考が影響されてて、会えるわけないんすけど、せめて同じ景色を見ときたいと思ってて、今回公開されてるのならばと立ち寄ったのです。馬鹿だなー、と思うんすけどねー。まあこういう馬鹿なことやるのが一人くらいいてもいいんじゃないか、って思うのですが。
でもって、井上さんは本覚坊にこの庭について「いささか眩しすぎる」と語らせてるのですが、そういわれればそうかもしれないなあ、ってな気もします。

ほんとは茶室に入ってみたいところですが、それは無理というもの。


しばらく堪能して、建仁寺をあとにしました。
下鴨神社
信長の墓所がある大徳寺総見院を見学した後、下鴨神社へ。

梅が咲いてました。

おまいりのあと、南へゆくと高野川と鴨川の合流地点につきます。この景色ってのが実は好きです。ほんとはしばらくもう数日糸の切れた凧のようにさまよってたいですが、そうはいきません。右へ行けば河原町今出川の交差点があります。

名残惜しさを鴨川に流して東京に戻りました。