黒塚へ

連休に+1日休んで、息抜きをしていました。
病的なくらいに変なときがあります。成功させなきゃいけない、みたいな使命を帯びた時、失敗が怖いから他人から文句を言わせないくらい職務にあたるときがあって、でもそんときはうまくいかない怖さってのは怖かったりします。感情をコントロールしないとまずいかもなのでずっと淡々としていなくもない日常を送ってますが、その恐怖を垂れ流しにしていいことあるか、っていったらないからです。顔に出したら不安になったらついてきてくれる人もいなくなるからっす。あと調整が巧くいかない時や「どないせえっちゅうねん」みたいなときがあると、キレたくなります。でもキレたらそこでなんにも改善しないので落としどころを探さなきゃなんない。ぐっとこらえます。そんななか、狂いそうだな、というのがでてきます。でも狂うことを公然と認めるわけにはいかないです。ぐっとこらえてたものが、崩壊するから。でもたぶんもうちょっとは狂ってるかもだし頭がおかしいかもだけど、さらに崩壊を抑えるために今年はちゅうちょなく東京を脱出することにしてます。息抜きばかりしてる気がしますが、見逃していただけると幸いです。


息抜きといっても一日目は用事があってそれで過ぎちまいました。
大阪から神戸市・京都市宝塚市へ向かう阪急電車というのがあるのですが、阪急のターミナルが阪急梅田駅です。以前はドーム型の天井というかアーチ型の梁があり白熱灯を利用した、曲線を多用しすこし暗めのコンコースがありました。社会人になったばかりの頃に一時期京都線沿線のカイシャの寮に住んでいて、昔の梅田駅を利用してたので(ここ数年大改造を行ってて最近一部完成した、というのを新聞で読んでたので)どう変わったのか気になって、夜に実際に行ってみました

白を基調とした開放的な空間になったのですけど、なんだか明るくなっちゃって残念だなー、と思った次第。良い記憶ばかりではないものの、記憶にこびりついてるところが無くなるとちょっと悲しかったり。
【遡及日誌2日目】
大阪市の南にあべの橋というところがあります。大阪の南部のターミナルのひとつです。
そこに現在建築中なのが「あべのハルカス」というターミナル高層ビルです。完成すれば日本一になるのですが、注目すべきは高さだけではありませんで、横浜ランドマークタワーも都庁舎も六本木ヒルズもいままでは更地かもしくは敷地が広いところにでかいものを建てるのですが、ここは駅前の一等地で、駅も百貨店もすべて営業しながらなのでいままで例がないくらいの難工事のはずです。

下から百貨店、オフィス、ホテルが入りますが、およそ区切りの部分で三段階に面積を減らしてあり、上に行くほど狭くなっています。どう説明すればいいのかわからないのですが、百貨店の上層部、オフィスの上層部、ホテルの上層部に三角形の集合体の構造物(アウトリガートラス)を桶のたがのようにいれてあります(さらにオフィス部分に二箇所ほど「桶のたが」をいれてある)。いちばん高いところまで伸びてる部分は途中5箇所ほどその「桶のたが」があり、耐震性が増してる計算になってます。また吹き抜けの空間をつくり、面積を減らしたところより採光と外気を入れ稼働時のコストを下げる計画になってます(ちくわが三本あるビルになってるといえばいいか)。あべのハルカスのような技術者の執念のようなものをみてると「内なる男の子回路」が発動して興奮しちまうのですが、建物を観察して興奮するのはちょっとへんかもしれません。


あべのから近鉄電車で飛鳥へ。

岡寺に参詣したあと伝飛鳥板蓋宮跡へ。石がずらずらってあるだけですが、皇極天皇時代の皇居で板でできた建物がずらずらっとあったので板蓋宮です。以前は大化の改新という名前で知られた蘇我入鹿暗殺とか、そこらへんのフレーズが浮かんできますが、最近は乙巳の変というらしかったり。
その板蓋宮跡で、東京大学の研究室の方々がヴァーチャルリアリティの実証研究をしておられました。

入鹿の首塚まで電気自動車でゆくのですが

このゴーグルをかぶると飛鳥時代の板蓋宮の映像がうっすら見られて、360度どの方向を向いても当時の想像図がでてきます。

ただ現実と仮想の境界があいまいになってしまうようなことはなく、現実の映像に重なってるので路駐してるダイハツハイゼットの向こうに飛鳥時代の王宮が並ぶという不思議な光景です。気分悪くなるかもしれない、という注意をうけましたが私はダイジョウブでした。技術の応用という点でこういう使いみちもあるのか、と目からうろこだったんすけども。

周囲は水田が広がるのんびりとしたところです。


飛鳥に来たのは前に見学した苑池遺構が現在どうなってるの観察したかったからです。

現在はご覧のようにビニールシートに覆われてます。埋め戻して公園にするか、池を再整備して公園にするかはまだ未定です。
ここに(南北約55m東西約60m深さ約1mの五角形に近い形状で底に石が平らに敷きつめられた)通称南池と(南北50m前後で東西36m前後深さ約3mで北側に細長い水路部分を持ち護岸部に階段状部分のある)通称北池の2つあったことが10年くらい前からの橿原考古研の発掘の結果わかっています。なぜそんなものがあるかはわかっていません。去年から断続的に再度調査を行ってまして、でもって去年に南池から大小の石を高さ3m以上積み上げた護岸が出土してて護岸上から庭の眺望を楽しんでたんじゃないかとかの説が出てきてます。桃とかナツメがでてきてるらしかったり。

山側より飛鳥の都のあちこち水路が流れたあとのその集結点であったのではという説や、地下水脈と連動して大雨時には水路から集結した水が地下へ流れ込み洪水を防ぎ小雨時に水位が低いときは地下水から水が出て一定量の水が池にある状態になってた調節地説などがあります。実際地下からの湧水とおぼしきものが湧き出ててます。

ここは未解明なところが多いのですけども、飛鳥時代の人の考えることに現代人は追いついてません。
でもってしばらくじーっとここで佇んでました。たぶん変な人でしかなかったと思います。


橿原考古研博物館を見学ののち天理市の黒塚古墳へ。

前方後円墳の円墳部分から三角縁神獣鏡という淵の断面が三角の銅鏡が33枚でてきたところです。

発掘当時の状況がレプリカで再現されてまして見学可能です。棺のまわりに15と17にわけて立てかけられてた状態でここでは発見されてます。鏡の大きさは20cmくらい。棺の周囲は朱やべんがらで赤くなってます。
魏志倭人伝のなかで銅鏡を卑弥呼へ100枚下賜したという記述があって(卑弥呼はその下賜してもらった銅鏡を魏と親しいことを知らしめるためあちこちに配ってたという説もあって)邪馬台国がどこかということとひっくるめて三角縁神獣鏡がそれであるとかいやそんなことはないでしょうとかここらへん諸説あります。と三角縁神獣鏡自体は奈良に限らず福岡などでもあって全国で500くらいあるものの、すべてが中国製と確認できてないのですが、しかしその鏡を作っていた形跡(工房や鋳型)がまだ日本のどこからも出ていません。困ったことに(いや誰も困ってないのですが)三角縁神獣鏡と同じものは中国からでてきてなくて、謎が謎を呼ぶのです(大げさかもですが)。それほど遠くないところに桃のタネや奈良に無いベニバナの花粉がたくさん出てきた纏向遺跡があり、もしかしてこのあたりに有力者がいたのかな、という推測は成り立ちますが、なんともいえません。この手の謎は嫌いではないので、実は一度来たかったところでした。来たところでなにかが変わるわけでもないんすが。

ちなみにここ↑「鹿男、あおによし」の舞台にもなってて、鏡の枚数を数えてる人がいました。


天理からさらに北上して奈良市

春日大社へ参拝して飛火野へ

鹿に「出番だよ」と言われる前に

奈良国立博物館正倉院展へ。混雑を聞いていたのでどうしようか迷ったのですが、ダメもとで博物館の敷地に入ると鹿の神通力のおかげか3分程度の待ち時間ですんなり入れました。夕方だったせいもあるかも。ガラスのサイコロ他、ガラス関係が多かったのですが、瑠璃杯というササン朝ペルシア産と推測されてるコバルトブルーのガラスの杯が目玉の一つで、瑠璃杯は写真で見るのとは実物はちがって不思議と存在感がありました(ただし会場で買った中公新書を読む限り瑠璃杯は天平時代には目録に入っていないようで来歴がちょっと謎のもので、でも後世にとっておきたいという理由で誰かが忍ばせておいたならそれはそれでわからないでもなかったり)。青というのはけっこう魅惑的な色なのだな・奈良というのはシルクロードの果てなのだな、というのを思い知った次第。
【遡及日誌3日目】
京都御所です。

明治時代に明治天皇が東京に行幸してから天皇は京都に戻ってないものの、御所はそのままです。

天皇と一緒に東京へ行った公家もいたのですが、京都に残った公家もいます。そのひとつが冷泉家です。藤原俊成・定家父子を祖とする和歌の家で、いまでも冷泉流という和歌の流派を受け継いでいます。定家のほうが有名かもで、念のため書いておくと「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」っていううたを残してる百人一首の選者です。冷泉家に大部分が残っている明月記という書物があって「世上、乱逆追討耳に満つと雖も之を注せず、紅旗征戎吾事に非ず」って源頼朝が兵を挙げたときのことが書かれてるのですが、つまるところそれくらいから残る家です。11月の数日だけ公開をしていて建物は江戸期に建てられたものですが、現存する数少ない公家住宅でもあって、写真はNGでしたので撮ってませんが、供待ちという玄関脇のお供のものが待つスペースとか(やんごとなき人たちは供を連れていた)、輿をそのまま横付けできるような式台があったりとか興味深かったです。
御文庫とよばれる重要文化財級の紙資料が入ってる蔵を外から見学したのですが、火事のときには屋根や瓦をどさっとおろして火を防ぐ(これは博物館でも同じ構造のところがあるので理解できる)、屋根は載せてあるだけ、という説明だったんすが、載せてあるという意味がいまいち理解できませんでした(そこにいたガイドさんは学生さんなので訊いてもわからなかった)。で、その御文庫は信仰の対象というか神様(のようなもの)がいるところであったりします。その感覚はわからないでもなくて、平安末期とかの歌がなぜ人を惹きつけるのかなんてのは、なんとなく人の力の及ぶところではないような気がしないでもなかったり。で、ぜんぜん関係ないのですが、なんで古典とか和歌とか、いまでも読まれ続けるんすかね。ある種の迫力をもって迫ってくることが多いのですが、迫力をもつのは言葉を受け取る個人のものに由来するのか、それとも発するほうに由来するのか、神様のせいなのか、わかりませんが。

座敷のふすまが黄土色の地紙に雲母の型押しの唐草ぼたんっていうのが続き、これは歌を詠む折に室内から季節性を排除して絵柄が邪魔にならんように、っていう理由なんすが、(その薄暗い色合いの唐草ぼたんのふすまがかえって気になるんじゃないのかなという気がした)、ふすま絵に左右されるくらい歌を詠む人は繊細なんだろか、と思った次第。花鳥風月・雪月花ほか鮮烈な印象に残るものとか寂しさ他体感した・実感したものを詠むものが歌なんだろな、と思ってたのでふすま絵ごときで邪魔になるというのがちょっと意外でした。そんなふうに感じちまうのはここらへん、想像上のものを語るのか、目で見たもの・体で感じたもの・身に起きたことを語るのか、文学とか和歌の世界をいまいち解せないむくつけき東男のせいもあります。



今出川通を西進し千本上立売の石像寺へ。

もともとは苦を抜く地蔵が本尊で、苦抜き地蔵だったのですが、いまは釘抜き地蔵とよばれています。苦労って称していいものかどうかはわからないもののしんどいと感じることが最近けっこうあってちょっとは楽になるのかな、と思って寄った次第。もっとも事態を打開するために動くのは・なんとかするのはてめえ次第なので、寄っても意味はないかもなんすが。

ちゃんと門前に釘抜きと釘のモニュメントがあります。釘とか目で苦が判る程度のものであればそれは対処法があるから楽なのです。ほんとにしんどいのは目に見えないとかいまいち実態がつかめなかったりするものなんすが、それは兎も角。

さらに北野天満宮へ。

学問をやってるわけではないけど、自ら修めた過去の学問が最近身をたすけてるかもしれない、と思ってるので参拝。

絵馬堂で算額(数学の問題を提示してその解を記したもの)があるかなあ、と思ったのですが見つけることができず。ちょっと残念。

ここには御土居というのがあります。ついでに見学していました。秀吉が作らせた土塁です。北は鷹ヶ峰、東は賀茂川河原町通、南は東寺、西は北野天満宮のそばの天神川に沿って京都の中心部を囲うように20kmほどありました(いまは跡形もありません)。地下鉄烏丸線鞍馬口という駅がありますが、土塁の出入り口がそこにあったからです。ただしなんで作られたかはいまいち判っていません。かなりの資金が要ったはずなので無駄な公共事業をしてる余裕はなかったでしょうからなにかしらの目的はあったはずです。一応堤防としての機能と、敵の侵入を防ぐため、という説があるのですが、秀吉自身が御土居の上に竹を植えろという指示があり、見通しはよくなかったようで防禦のためとは考えにくいです。

御土居の上も歩けます。もうしばらくすると紅葉がきれいになるらしかったり。

北野天満宮で秀吉に関係するものででかいのは北野大茶会です。宝物殿に資料があって、見学してきました。で、北野大茶会は、秀吉の命令で開かれ、10日の予定がなぜか1日で終わりになりました。ここらへん複数の小説家が秀吉の心中を探ってるのですが、いまいち判りません。謎っていえば謎なのですが。


かけあしですが、いくつかの謎を観てきました。謎というのはちょっと惹かれます。隠れてる部分をあれこれ想像する、というのはどこか面白かったりします。

その面白そうなことにもうちょっと浸って居たい気もしたのですが、リフレッシュできたなと思ったので、とりあえず封印して東京に戻りました。