吉野へ

○遡及日誌第一日目
長命寺
新宿から高速バスとJRを乗り継いで近江八幡という町にゆき、そこから琵琶湖のほとりへ。

目指すは琵琶湖のほとりの山の中腹にある札所・長命寺です。階段が808段あります。それを一気に上がります。木陰であることがせめてもの救いです。でもって途中からなにも考えられなくなります。考えないのが無なんじゃないか、と思ってるのですが、違うかもっす。それと余裕がなくなります。坂を上ってるときの「休む」という行為は実は余裕がないとできません。上り坂の途中で休めば休むほど苦痛を先送りしてるのと同じで、また先が長く感じられるのでしんどいのです。苦痛やしんどさを乗り越える余裕がないと、休めません。なもんですから、数珠を握り締めて一気にのぼりました。この階段の途中でなぜか署名活動に出くわしペンを差し出されたんすけど、正直そんな余裕がないので、と断ったのですがその人たちに理解してもらえたかどうかはわかりません。でもとてもじゃないけど立ち止まれる余裕はありませんでした(で、すこしにらまれた)。
10時近くですでに30度は超えてましたから玉のような汗がだらだらでてて、真夏の空の下なんでひたすら階段を上ってるのか、こんなことをしてるのか、自分でも言葉にはならなくて説明はつきません。唯一、動機を説明できるとしたら単純な話で昔の人と同じことをしよう、そうすればなにかにたどり着くんじゃないの、という一点のみです。そんなことしてなんの効果があるのかはわかりません。自分にとってはなんにも考えない・無にするってのが、ちょっと重要な気がしてます。日常では「めんどくさいな」「どうでもいいや」ってのと「まだまだなんとかなるかもしれない」ってのとの間で常に揺れ動いててそれがけっこうしんどいのですが、より大きな苦行をして考えない・無にすることによって、しんどさ・揺れ動くのをストップさせてたんじゃないか、って考えてるのですが、錯覚かもしれません。最初にここに来たのは、とりあえず頭の中を無にしたかったからです。

聖徳太子がこの地に来てて、この札所にある柳の木で刻んだ本尊は聖徳太子作なんだとか。なぜか前から仏像に興味が持てなくて別に誰の作でも興味はないのですが、聖徳太子ってのが関東の人間からするとどこか現実感がありません。バスで来た団体さんが先にいて、汗だくの私を見て、下から上ってきたのを知って驚いてたのですが、そのあとここの階段800段もあるんだってさ、ははは車は楽だねえ、とほかの人に笑っていってたんすけど、その笑い声もどこか私にとっては現実感がありませんでした。でも階段を上るってのは実は笑われることなのかもしれません。意味なんてほんと階段を上るという意味を発見したい脳内にだけあるのかもしれないっすね。頭の中を無にしてもそんなことを考えちまうので、私は凡人なんすけど。

勤行の後大休止してとった写真。水面と同じ高さからけっこう上ってきたのですが残念ながら(といいつつもぜんぜん残念じゃないのですが)琵琶湖を眺めることはできません。
竹生島
そのあと新快速で長浜へ。急いで連絡船に乗って竹生島へ。

竹生島は琵琶湖北部にある小島で、殺生禁止の場所でもあって周囲での漁も猟もご法度です(でも最近は、かわうが増えすぎてきてフンで森が枯れてきちまってるのが問題化してます)。

この島に宝厳寺という札所があります。でも人が住むような場所ではありません。あるのは寺と神社と茶店だけ。

400年前に豊臣家の力で、京都の豊国廟から移築された門を一部流用してる観音堂桃山時代の建築物です。

神仏習合の名残で神社と一体になってます。この廊下の向こうは神社で、その回廊の名前が船廊下。長浜を治めてた秀吉の船の船櫓を流用してます。
謡曲竹生島ってのがあって、ここに祀られてる弁才天は天女となって人々の願いをきき、またあるときは龍神となって国土の安穏を守る、っていういいつたえがあります。神社にはその龍神を拝する場所があったりします↓

凪だったので、龍神はいまは湖底で午睡中なのかもっす。
彦根
長浜からこんどは彦根へ。

幕末の大老井伊直弼が若かりし頃を過ごした埋木舎。埋木舎は家を継ぐ立場になかった直弼が自らの境遇を埋もれる木にたとえながらも勉学と修練に励んだところなんすけど、近くに行くなら参考になるかなあ、と事前に教えてもらってた場所です。自分のモチベーションをどうやって維持するかってのがあって、建物を見たところでどうしようもないものの井伊直弼って人が気になってたので、彦根にわざわざ寄ったのはここへくるためだったんすが、残念ながらこの日は施設の養生のため、見学不可・閉門の日でした。

じゃあ、ってんで「いざ、彦根城へ!」といいたいところなんすが

彦根城の閉門も近かったのでひこにゃんの像だけ見学。
【五山の送り火・大文字】
この日は京都泊まり。五山の送り火に当たる日だったので、大文字を鴨川べりで見学。すごい人出だったっす。

小さくて恐縮ですが、大文字の写メ。点火と同時にどよめきが走りました。
○遡及日誌第二日目
興福寺南円堂
近鉄電車で奈良へ。

せんとくんには悪いなー、と思いつつ、1300年祭は車窓から眺めただけっす。

興福寺にある南円堂へ。西国の札所でもあります。興福寺も創建1300年になります。ただ長い歴史の中で火災で燃えたりしてるので、この建物も江戸時代のもの。
火災で思い出したのですがいま興福寺は江戸時代に燃えちまった中金堂の本格再建を目指してます。仮の建物を江戸期に建てて最近までそれでなんとかしのいでたのですが老朽化で数年前に解体しちまってます。阿修羅さんがあちこち出開帳をしていましたけど幸いにも全国から興福寺に浄財が集まったのか、秋には立柱式を行うようです。
【頭塔】
5年ほどくらい前に存在を知ってから気になってた史跡です。頭塔とかいて「ずとう」と読みます。事前に予約を入れておき、見学しました(但、九月から期間限定で予約なし見学可になるようです)。破石町という、東大寺大仏殿から直線で南へ一キロ弱のところにあります。

奈良時代の僧・玄纊の頭塚・首塚、という説もありますが、東大寺の僧が建てた土塔です。五重塔とかと同じく仏舎利を収める塔としての役割を持ってたのではないか、との説が有力のようです。いまあるのはこういうものであったのではないか、という復元後の姿ですが、一番上に五輪の塔があって、

奇数段に(いまのところ判ってる限り)28基の石仏が置いてあり(うち1基はなぜか大和郡山城にあった)、石仏の上に屋根がのってます。ちなみに保存顕彰会のパンフによると頭塔そのものの全高は10メートル、一辺は32メートルくらい。

立体曼荼羅のようなものなのではないか、とそのとき同時に見学していた茨城県の歴史の先生は仰ってたのですが、ほんとのところはわかりません。なんなんすかね。石仏を拝観したあと、私は実物を前にしばらく呆けてたのですが。くやしいかな、これが理解できてないということは、現代の我々は、たぶん奈良時代の人たちの頭におっついてないのです。
若草山
春日社の境内にて。ひょっとしてかゆいのか。

シカは草食です。で、(ポッキーはともかくとして)謎なのはシカはなぜか口に合わないのかシダ類を不思議と口にしません。行ったときは万燈会の直後で、常夜灯にあんどん用の紙が貼られててたのですが、その紙を器用に食べてました。

すでに30度越えしてるのに狂気の沙汰なのですが、山に登ります。春日社の奥にある若草山です。
春日社の奥は森で、そのなかを小一時間くらい。

森のあるあたりが東大寺興福寺周辺です。なにを見たかったか、といったら、単純に上から奈良を俯瞰したかったんすけども。こういう馬鹿げたことは一人のときしかできません。平城京の特異さ、というのは川がそばにないことで、都がここにある間はどうやって物資を運んでたんだろ、ってのが微妙に引っかかってる謎なんすけども。

頂上には鶯塚古墳があります。「うぐいすのみささぎ」です。誰が眠っているのか現在もよくわかっていません。ただ場所が場所ですからやんごとなき人であったのかなあ、と。

念のため書いておくと山の上にもシカがいます。ここは彼らの領域っす。
【飛鳥】
奈良から近鉄電車を乗り継いで飛鳥へ。十数年ぶりの再訪です。

ご存知、石舞台っす。蘇我馬子の墓、という説が有力です。推定総重量2300トン、天井石だけで推定77トンあります。よく作ったよなー、なん考えちまうのですけども。
石舞台から遠くないところにあるのが、岡寺です。

弘法大師が土で作った塑像の観音様が本尊です。勤行の後、ゆっくり拝観させていただきました。

飛鳥に来たのはわけがあります。先月夜遅く、NHKの再放送で、飛鳥京の池の遺跡についての特番をやってて、どうしても見たくなったのです。
いまはもう埋め戻されててあとかたもないのですが、

伝飛鳥板蓋宮に隣接して池が二つあって、南側にあったものは深さ1.5メートル、60メートル四方の観賞用の池(観賞用の池からは沐浴用の水槽のようなものが出土してて橿原の考古学研究所に展示されてます)もうひとつの北側の池は深さ4メートル、南北55メートル東西35メートル、さらに幅10メートルの飛鳥川に接続する水路つきでした。で、飛鳥京は流れる水路が張り巡らされてたらしくその終着点がここでもあったらしいのです。張り巡らされた水路によって、夏場は風が通ります。空調を兼ねてたわけっす。で、このあたりは数メートル掘ればここは水が湧き出てくるようなのですが池からも水が湧き出てたようでその機能を利用して池には一定の水位があり(たぶん防火を意識してたはず)、さらには飛鳥川に接続してますからその洪水から飛鳥京を守るための調整池的な役目もあったようなのです。私の専門はぜんぜん違う分野で、治水や防災、都市計画ってのとは関係ないんでそんなもの知ってどうするのー・見にいってどうするのーなんすけど、昔の技術者の苦労の痕跡を目で確かめておきたかったのですけど。
もっとも現地周辺は、

どってことない水田地帯です。で、飛鳥のある奈良県南部はいまは飛鳥川の水では足らずに吉野川から導水をしていてその水路があります。実際それも見てきたんすが水が流れてると涼しかったり。こんなふうにして暑さをしのいでたのかなってのをなんとなく実感できました。
○遡及日誌第三日目
西行庵】
腹積もりとしては奈良から長谷寺まで歩く予定だったのですが、さすがに30度越えが続く中、そんなことをしたら倒れるかも、と思って急遽変更して吉野へ行きました。朝早く吉野入りしてまず最初に向かったのが西行庵です。吉野山は京都・奈良に近いほうから下千本・中千本・上千本・奥千本というふうにあるのですが、西行庵はいちばん奥のほうにある奥千本にあります。
西行って私の中ではわけがわからない人の筆頭格です。歌人として有名な人ですが、もともとは貴族です。で、妻も子もいるのに突然23歳で出家するのですが、その理由はわかりません。なにかがいやになったのだろうな、ってなことぐらいは想像できます。で、出家といっても高野山で剃髪するものの俗世を断ち切ったかというと、死ぬまで紀州の領地を手放してません。非僧非俗の境目に生きた、というか食うに困らずに隠遁して暮らしてたわけです。なもんですから、のうのうと
「世の中を捨てて捨てえぬ心地して都はなれぬ我が身なりけり」
世の中をいちどは捨てたはずだけど、でもなかなか捨て去ることができないの、都の思い出が染みた私の身体、みたいなことを平気で書いちまいます。それって世捨て人なんかなー、坊さんなんかなー、ってなことをどうしても考えちまうんすが。いい意味では人間くさい、しかし悪く言えば、よほど優柔不断な人間だったんじゃないか、花の下で春死にたい、満月の下で死にたいなんていってるけど
「春風の花を散らすと見る夢のさめても胸のさわぐなりけり」
なんてのをしるとほんとにこの人そういう境地へ至ったのだろうか、かっこいいこといってる割にはやすらかな境地なんかに至らずにひょっとして死ぬまで雪月花とか四季とかのうつろいや、さらに些細なことに心をざわつかせて生きてたのではないか、それって幸福だったのだろうか、なんてことを考えちまうのですけども。
朝いちばんで、誰もいません。もちろん庵はあとから復元したものです。光線の具合もあいまって、なんとも不思議な場所に思えました。個人的にはなんだか落ち着かない場所です。吉野でも何首か詠んでるはずで、落ち着くことができないから、歌を詠んだのかもっすが。西行が住んでた現地を見て意味があるのかっていったらたぶん歌人でもない凡人な私にはなんの意味もありませんが、とりあえず行ってきました。
【吉野行宮】
吉野の史跡というのはたいてい山の上にあります。

こんな山の中です。
桜の木が多いので桜の時期だと、桜色に染まるらしいっす。
でもって南北朝時代にはここが世の中の中心のひとつでもありました

吉水神社です。後醍醐天皇がここへ潜幸し、南北朝時代がはじまります。

後醍醐帝の玉座です。後年、秀吉がここで花見をしたときに手を入れちまったので桃山風です。後醍醐帝は京都に戻ることなく、吉野で崩御し、今でも吉野に眠ってます。馬鹿みたいなことを書いておくと後醍醐帝が遺した書物ってのも残ってて、ああほんとに居たんだなあ、なんてことをぼんやり考えてました。
吉野葛
吉野・金峯山寺見学後その門前でくずきりを食べたのですが、美味かったです。

吉野は葛がとれます。薬草にもなりますが、葛の根っこから上等なでんぷん質がとれるのでそれを精製してくず粉をつくります。で、吉野葛は菓子にいれるとなめらかになるのでよくつかわれます。確かに上品・滑らかになるんすよ、舌で確かめてきました。
橿原考古学研究所付属博物館】
橿原考古学研究所の博物館へ。奈良県で出土した古代の遺跡の資料がこれでもか、と詰まってる場所です。

個人的には材料、地質の方面から考察された資料と、どこからその材料が奈良へ来たか、という資料が興味深かったです。一時間ぐらいで切り上げる予定だったのですが、時間ぎりぎりまで粘って見学してました。
○遡及日誌第四日目
【宇治】

京阪電車で宇治へ

目指すは西国札所・三室戸寺です。参道の途中、ゆりがけっこう咲いてました。高砂ゆりっす。外来植物でさいきんわりとあちこちで自生してるのを見るようになった気がするのですが、場所が場所なので、お!と思っちまった次第。で、この写真を撮ってると頭塔でいっしょにああでもないこうでもないと云ってた茨城の歴史の先生とほんと偶然に再会。昨日は前から気になってた紫香楽宮跡へ行ってたのだとか。無駄話をちょこっとしてました。ゆりがあわせてくれたんすかね。

ハスが有名な札所です。本来はまだハスのシーズンらしいのですが、今年は暑くて成長が早く、なおかつ水温が高い鉄の鉢で栽培してるので花はあらかた咲き終わった後でした。別にハスの花目当てじゃないのでかまやしないのですけども。
このお寺のなかには浮舟の古蹟という場所があります。すぐそばに宇治川があって水上交通が盛んであったので守護の観音様が祀られていた浮舟社というのが発端らしいのですけどもそれが縁あって三室戸寺に移ってきて(納経帳には浮舟の朱印があったりします)、薫が師事した「宇治山の阿闍梨」が三室戸の僧ではないか、という説とあいまって、ここは源氏物語と一緒に語られることが多かったりします。虚構の世界を現実の場所に重ね合わせる人が多いということは、それだけ読み継がれてるってことの証明かもしれません。浮舟の話ってけっこうしんどくて、薫は宇治に浮舟を連れて行って住まわせるのですが、そこにアタックをかけたのが匂宮っす。匂宮はだまくらかして強引に関係を結ぶのですがそのうち雪道をものともせずにさらいにくる情熱的な匂宮に惹かれちまいます。でもって苦悩の果てに川に身を投げます。ほうらこういうふうに色恋沙汰は人を苦しめるのよ、という作者のメッセージかもしれないのですが、源氏物語・宇治十帖ってそれがいいたかったのかなあ。ただ苦しみのほかに甘美なこともあるせいか少なくとも私は色恋沙汰を絶てずにいて、千年前の文学を知りながら顧みない二足歩行するおろかな動物なのかもしれないです。
月桂冠大倉記念館】
宇治から京都へ向かう途中に伏見があります。伏見はよい水が湧き出る酒どころです。
立ち寄ったのが月桂冠。試飲もしてきました。美味かったです。

「灘の辛口・男酒、伏見の甘口・女酒」ってなふうによく伏見は灘と比較されますが、伏見の酒は歴史はあっても白鶴や菊正宗といった灘酒に比べて規模が大きかったか、というとそうではありません。現在残ってる月桂冠や黄桜も、躍進して大規模な蔵になったのは明治以降です。特に月桂冠は灘勢の醸造する樽詰めの酒が主流の時代に防腐剤無しのびん詰酒・小瓶酒を売り出して市場を開拓しました。技術とアイデアしだいで、力のあるライバルと対峙できる、っていう見本みたいな存在です。
で、広告みたいなことを書いておくと月桂冠ではプラムワインってのを作ってて日本酒のほかに試飲させてもらったのですが、これがほんとに美味しいのです。でも日本ではなかなか受け入れてもらえずにいてもっぱら輸出にまわしてるのだとか。技術があってもうまくいかないこともあるみたいです。
大徳寺高桐院】
最後に向かったのは大徳寺の中にある高桐院です。作ったのは細川忠興という人です。上野の博物館で細川家の展示をやってたときに細川忠興という人が微妙に気になって、その忠興が作ったものを見ておこう、ってなことを考えたのです。みたところでなにになるの?なんすけども。利休七哲のひとりとして後世に名前が残ってますが、ほんとは大名で織田・豊臣・徳川の三代を切り抜けた武将です。つか、どっちが本来の姿なのか、っていうのは瑣末な問題でしかありませんが。

写真が下手なんすけど、参道からして、ひとことで言うなら「幽玄」という雰囲気が漂います。実際、30度越えしてたんすけど、見た目は涼しげ。

写真オッケイなので、撮影。いちばんいい景色のところは別の人がずっとそこにいたので撮ってないのですが、苔がきれいでした。でもって、光の当たり具合によって同じ瞬間は野郎の絶頂と同じで長くは続きません。隣にいたドイツ系と思しき外人さんがしばらくぼーっと眺めてて、前にいた私と同じくらいの年齢の男性がしばらく佇んでたあとにおもいだしたようにカメラを撮りだしてたのですが、私もファインダーを覗く前になにも考えずに「ほー」って見とれちまうような瞬間に立ち会いました。

忠興という人がなにを考えてたかはわかりませんが、生きるか死ぬかのいくつもの大勝負を切り抜けた・くぐりぬけた人が作り上げた見事な庭を前にして、無にするってのは一定の時間をやはりほかのなにかで埋める、ってことなんかな、なんてことを考えてました。違うかもしれませんけども。


以上、仕事のこととか雑事を忘れてひとりであちこちみてきました。たぶん何の役にも立たないことしかしてません。でも、その何の役にも立たないことほど、魅惑的で魅力的なことに見えちまったんすが。