飛鳥へ

この期に及んで、土日二日間であるいてました。
○遡及日誌第一日目
四天王寺
高速バスで着いたあと、天王寺へ。大阪における、私にとってのいちばん重要な場所が四天王寺で、まず最初にここへ。

五重塔の向こうに見える高層ビルがあべのハルカスです。
【飛鳥】
近鉄電車で奈良県の南部、飛鳥へ。

飛鳥板蓋宮あとの西側に、

苑池遺構というのがあります。正式には飛鳥京跡苑池遺構という名称でもう10年以上、人工池の発掘がすすめられています。
池は南池と北池2つあり、

現在は埋め戻されていますが北池が南北46から54m東西33から36m(北東側が階段状になってて底は石敷き)、さらに水路があったことが判ってます。

南池が南北55m東西が65mで、五角形の形をし東岸が高さ3m西岸が1,3mくらいあることがわかってます。そこは石敷き戦前に南池(もちろん当時はここに池があるなどとは誰もわからなかった)からは溝と窪みによって水を受けて導水につかったと思われる石造物(通称出水酒船石)がでてていまは京都南禅寺周辺の野村財閥の別荘碧雲荘の茶室のそばに蹲踞としてつかわれてます。で、今月、その導水施設に接続する幅70cm深さ15cmくらいの暗渠が岸から一部みつかりました。いまはシートがかかっててみえません。よそから水を引っ張ってきて、この池に流れていたと思われます。噴水状のものなんてことが日経に書いてあったような気がするのですが、現地にあった資料ではそこまで踏み込んでません。

写真の向こう側が東岸で、今回東岸と南岸が調査対象で、東側では木柱の柱が一本出てきてます。現在は貯水がすすんでますが、池は地下水脈とつながってて、洪水時には地下へ水が流れ込み、小雨時にはおそらく水が地下水脈から水が補充され干上がることが無い調整池機能はあったのかもなんすが、ここがどういう場所であったのかは正直謎の部分は多いものの(症状に対応した処置法を書いた木簡や植物のタネ等が出てることを考えると薬草園・植物園が存在したか)おそらくかなり精巧な構造をもった池がある庭園ではあったらしかったり。
仕事とは関係ないことなんすが、こういう土木系の話はきらいではなくここ数年ずっと気になってて、つい最近の暗渠発掘のニュースをきいて、お前バカだろー、といわれそうなのですが、飛鳥まできちまったのでした。


飛鳥にはよくわからないものがあります。

鬼の雪隠呼ばれる石があります。いちおう、いまのところ説明はついてて、もともとは古墳の石室の蓋の部分で石がむき出しになりそののちなんらかの事情があって古墳から分離し、ひっくりかえった状態で放置されてる、というのがあります。そういわれてみればああなるほどなー、と腑に落ちるのですが、よくわからないのが

酒船石です。

皿状のくぼみと溝があって、薬や酒などを造るための道具とか、諸説あるんすが、謎が多かったりします。説明がつかない、というのは落ち着かない反面、興味深かったり
法隆寺
近鉄と関西線を乗り継いで法隆寺へ。

中学の修学旅行以来なので、20年以上ぶりです。

五重塔飛鳥時代のもの。でもって20年以上経ると、記憶というのはもうかなりおぼろげです(そもそも修学旅行の思い出なんてどこへ行ったかより夜や移動中のほうが記憶してるものかもなんすが)。あーこんなところだったっけか?という違和感がけっこうありました。記憶とはまた別の、最大の違和感はお寺でありながら御線香の煙をほとんど見なかったからかもなんすが、私が見落としていただけかも。

この回廊は覚えてて、そうそう柱がエンタシスだかなんだか、ギリシアの考え方がペルシア経由できたんだっけ、ってなことも思い出しました。
藤ノ木古墳
法隆寺の西に藤ノ木古墳があります。6世紀後半につくられたわりと重要な古墳のひとつです。
奈良はあちこちに古墳があり、ちょっとした丘はもしかしたらあれは古墳かもと思えてきますけども。

埋葬者はわかりません。昭和の終わりごろに調査がはじまり(現在は直径約40m高さ7.6mですが)もともとは直径50m、高さ約9メートル規模の大きい円墳で、さらに盗掘をうけていないことが判明し鏡や刀や金色の馬具ほか豪華な副葬品がけっこうでてきました(現在は橿原考古研で保存されてます)。その馬具の意匠がそれほど他国のものと似てないので注目されてて、でもっておそらくきわめて高い地位にいた人物の埋葬場所である可能性が高いとされてます。また埴輪も出てて、畿内では6世紀中ごろにはつくられてなかったのではないか、という定説をひっくり返しています。
現地へ行ってなにになるっていうとつまっちまうのですが、ちょっと現地確認したかったのでした。

内部は見学できるらしいのですが、この日は年末なのでクローズしてて、残念。
大和川
探偵ナイトスクープという番組があるんすが、上岡局長時代に斑鳩から大阪の浅香山まで通勤する場合、斑鳩のそばの王寺から関西線で新今宮へゆき、南海電車乗り換えで浅香山へと陸路を行くより、王寺と浅香山のそばにある大和川を下った水路のほうがはやいのではないか・実験してみたい、という依頼がありました。探偵と依頼者が実際半日以上かけてゴムボートで下ったのですが、大和川は底が比較的浅く、また奈良と大阪の境(亀の瀬)で(瀬というのは底が浅く流れが速く、対して淵は緩やかで底が深いときに使います)急流に難渋していたのを偶然視聴していて、ああじゃあ奈良と大阪の間を昔はどうやって往来してたのか、という疑問を(きっかけはくだらないけどけっこう長い間)持っています。いまの奈良県南部は果たしてどうやって物資を運んでたのか、材木や食料ほか、域内で自給自足できてたとも考えにくく、いちどその疑問を奈良県下の田原本の資料館で質問したことがあるのですが、明治期までは奈良側(底が浅い)と大坂側(底が深い)で船を変え、急流のすぐそばの中継地点で人力で荷を運び、載せ替えてた、という答えで腑に落ちたのですが、確実なのは江戸期の話で、その前はわかりません。法隆寺からJRで大阪へ出るにあたり、そばに大和川がある!と思いついて観察しようとしたものの、走行する電車からではそれほど細かくは観察できませんでした。

やはり歩いて踏破して観ないとダメかもしれません。ここらへんいつか踏破して調べてみたいな(そんなひまどこにあんねん)と思いつつ、謎は謎でもうちょっととっておきます。
○遡及日誌2日目
JRで京都へ
伏見稲荷
年末だったので公的な博物館は軒並みおやすみで、雨が降ってたのでどうしようかなと考え、駅に近いところに行こうと考えて伏見稲荷へ。

全国のお稲荷さんの総本宮です。商売繁盛に関して比較的御利益があるとされてて、上を通過する人が会社経営をしてるので来たことがあります。私自身は商売してませんけど、高望みはしないけど並みの開運招福を願って参拝。進路は自分で決めますが、その決めたことに関して不安が無いわけではないので、招福をお願いしたかったり。

電線の向こうから睨みつけてるのは、きつねで、神様の使いです。好みは油揚げで、油揚げをつかった寿司が稲荷寿司っていう、ここらへんはよく知られた話かもしれません。

伏見稲荷の本殿の奥に山があるんすが、その山全体が神域で、やしろが多数あります。鳥居は願い事の御礼に鳥居を奉納することがあり、いまでもその風習があって、たくさんの鳥居が伏見稲荷に奉納されてます。私が育った街は出雲系の神様がいるところで、神社といっても朱色とは無縁でした。で、ここは朱色の鳥居がひたすら続く・大量にあるのですが、最初かなりびびったことを告白しておきます。

奥社へゆく、通称千本鳥居という場所です。その千本鳥居の中で、誰もいなかったので一枚。雨が強くなってて、なんだか妙な雰囲気の写真になっちまいました。
12月の最後になって、抱えてるうちのひとつが、いちおうのケリがついたことがあったのでご褒美として小旅行にでました。歴史た地理というのは勉強じゃないとひどく面白くて現実を忘れさせてくれます。かといって、現実を忘れるとやはり生きていけません。もうちょっと居たいと思いつつ(歴史が詰まってる奈良と京都はそう思わされる場所です)、そうもいってられないので、東京に戻りました。