人生がときめく片づけの魔法って本がありましたけど、「人生がときめく」というのはある種の脅し文句です。ときめかなくてもいいんですか?っていうとき、別にときめかなくてもいいのだけど、言外にその選択肢をとらないことをよくない選択に思わせるような質問になり得ちまうからです。ときめくというのは絶頂と同じで緊張を強いて本来疲れることで、そんなもの人生でしょっちゅうあったらつかれちまうわけでときめかないほうが楽です。最近ではリア充って言葉があります。スラングのようなもので、どういう意味だかいまいち判ってないけどおそらく実生活が充実していることを指すようです。で、リア充もときめきと同じで、実生活がいつも充実してなきゃいけないか、っていったらそんなことないです。そもそも現実・リアルが充実してていいことか、というと、まず充実するというのは空きがないわけで、あっぷあっぷなこともあるから、つかれんじゃないかなあ、と。リアルが充実しなくてもいいんですか、ってのも別に充実しなくてもいいはずなんです。充実はフルにする必要はなくて、だって仕事ばりばりやって恋愛もバリバリこなしてて、なんていったら人間壊れます。適度に肩の力が抜けてたほうが健康のはずなんだけど、でもどうもそれはなんとなく悲しむべきことと思われてるらしい。


知らない男女が街中でいちゃいちゃしてるのをみると「りあじゅう爆発しろ!」と云いたくなる気持ちがわからないでもないのだけど、それは同じ土俵に立たなかった・立てなかったことの(物陰でしかいちゃいちゃしたことが無い)、無いものねだり的悔しさが半分はいってるのだと思います(個人的経験・私怨あり)。ただ、それで済むのかなあ、とおもうところがあって、そもそも充実させぐあいって、人によって違うんだけど、それを比べてもしょうがないんじゃないのかな、と。あんまりリア充爆発しろ、という言葉をつかう気になれません。恋路を優先するか、それ以外を優先するか(街中でいちゃいちゃしたときのあとのはしたないと思われるリスクを考えちまう)、それはまた人によって違うんじゃないか。で、恋路を優先した人を、それ以外を優先したこちらがどうこういうのはまちがってるかなあ、ってのがあったり。選択が違うからなんとなくその面白くない原因をその他人に持ってくのは違うかなあ、という気がしてならないっす。


違うかなあと思いつつ、クリスマスのあと手を街中でつないで歩いてるカップルが勤務先のそばの駅では増えた気がしてて、それはそれでほんとは批難されるべきことじゃないんすが、てめえら邪魔だ・混雑してる通路でゆっくり手をつないで歩くんじゃねえええ的なところからくる、りあじゅう爆発しろ!というのはあったりします。