2日ほど京都と奈良へ行っていました。
○遡及日誌一日目
[大根だき]

12月8日というのは臘八会といい、釈迦が悟りを開いた日としてその前後にあちこちの寺院で法要を行います。そのうち千本釈迦堂では大根だきというのがあります。何年かぶりにお参りし、授与していただきました

大根(聖護院大根)がほくほくで甘く、美味かったです(のってるのは油揚げ)。あったかいもの・美味しいもの、というのは食欲をそそります。
[狸谷不動へ]

千本今出川から出町柳へ出て叡電に乗車し一乗寺という駅で降りてけっこう急な坂道を行きます。狸谷不動というところを目指します

駅から10分くらい行くと坂道の先にはさらに階段が。

そんなこと教えてくれなくてもいいよー、という情報を狸が教えてくれます。目標を目指してるときは集中が必要なので個人的にはこういう親切・余計な情報はいらないよなあ、と思っちまいます。狸が居るのはここが狸谷だからです。もともとは鬼門(御所からみて鬼門の方角に)から入り込む悪鬼を叱る咤怒鬼(たぬき)不動明王がいるところなのでそれが狸となり、「たぬき→他抜き→他を抜く」というほぼ言葉遊びの世界なのですが商売繁盛や芸事上達のために参詣者がけっこういます。舞踊や文章の仕事で食ってるわけでもないし、他人を抜いてまで出世したいという欲求はありませんが、芸事ではないけどえっちのテクがうまくなってよろこばせたい、ってのもあるなってそれはともかく、とりあえず機会があったので狸谷を登ります。
でもって「他を抜く」というのはどういうことなのかけっこう最近考えさせられます。劣等感にもつながることなのですが、若いから・若くみられるからって相手から青二才・若輩者扱いされると(ほんとは青二才・若輩者なんすから別にそんなことで凹んでもしょうがないのですが)よくに凹んでました。そこから導き出される答えとしては「後進はよりすぐれていなければならない」ってのがあって、叶いそうになくても優れた存在になるように自分を磨くしかないっていうのをずっと意識して、できるときは実行していました。そういうところでは他を抜く、というのは自分には意味があります。でも他を抜いてなんの意味があるの?みたいなことを考えちまうことはあります。うっすら持っていたおのれをもうちょっと高みにもってゆきたい・より優れたい、という希望は、高みにもってってどうするの・より優れてどうするの、というのと対になりそうですが、答えとしては単純な話で、職務を全うしてより良い状態にもってゆきたい、というのに尽きます。より優れたいというのにほんとに意味があるの、と言われたらわかりません。意味というのは脳内でなにかしら納得したい時にでてくるキーワードであったりします。

木立の中をひたすら階段をのぼります

5分くらいずっと上りっぱなしでやっと本堂が見えてきます。

250段目の本堂のそばにもやっぱり狸が。いらっしゃーいと徳利を持って歓待してくれます。

きつくても諦めないというガッツがないとここまでこれないわけで、もしかしたらお不動さんに試されてたのかもしれません。

いやお不動さんじゃなくて、狸に試されてたのかもですが。
[鱧]

恒例の「まねき」がでてて、師走であることを実感しました。鱧の照り焼きを夕食のときに食べたのですが、夏のものだと思っていたのでいまの時期でも鱧があることを知ってちょっとびっくり。訊いたら淡路島で獲れたときだけ京都に流れてくるらしく、いまぐらいのを「なごり鱧」というらしかったり。のこりじゃなくて「なごり」と名付けるところが粋だなあ、と思っちまいました。
○遡及日誌二日目
[飛鳥へ]

近鉄電車を乗り継いで飛鳥へ

性懲りもなく、遺跡見学です。なんべんか書いてますが飛鳥板蓋宮の西の、飛鳥川のそばに

苑池遺構というのがあります。ここ10年くらい調査がずっと続いてまして、
・南北二つの池がある
・南池は五角形で南北およそ55m、東西およそ65m、東岸が高さ3m、西岸が高さ1,3m、池底には石が敷き詰められて、中島や石積みの島があり、石組み給水暗渠によって池に給水する石造物があった。なお戦前に南池(もちろん当時はここに池があるなどとは誰もわからなかった)からは溝と窪みによって水を受けて導水につかったと思われる石造物(通称出水酒船石)がでてて京都南禅寺周辺の野村財閥の別荘碧雲荘の茶室のそばに蹲踞としてつかわれている
・北池には接続水路と南北最大およそ54m、東西最大およそ36mほどで、深さは3m程度、北東隅っこに階段状の施設があり、池底はやはり石が敷きつめられていた
・池の東には砂利が敷き詰められていた
ということがわかっています。

写真は南池跡です。先月、ここでいくつか発見がありました。水はありませんが、石垣等と中島がわかりますかね。写真左が方角が北になるのですが、橿原考古研の調査パンフレットによると中島の北に柱が2本でてきてて、おそらく池にせり出すように木製の構造物があったのではないか、という見解です。底から30cmのところで色が変色していたので水深は30cm、おそらく池の底を見せるような構造であったのではないか、とのこと。木が腐らずに残ってたということは、地下水がそれだけ豊富で冷たかったからかなあ。念のため書いておくと地下水脈ともつながってるのでいまのところ放置すると水が溜まります。

南池跡のさらに南には(シートがかぶせられてますが)掘立柱塀と掘立柱建物の痕跡が二棟分あり、おそらく池を眺めるためのものではないか、という見解です。池の周りで優雅に遊んでいたのかもしれません。しばらく南池跡のそばで佇んでいました。

立ち入り禁止区域には入ってないのでなにがなんだかの写真になってますが、埋め戻されてる北池に接続する水路の西にも建物の痕跡が先月発見されてます。
先月は忙しかったのでこれなかったのですが、どうしても現地を確認したかったのです。つかこの土木工事の痕跡に、うまく説明できないのですがなぜか惹かれるのです。
[奈良県立美術館へ]
奈良へ移動し茶粥を食べたあと県立美術館へ

薮内左斗司展(12月15日まで奈良県立美術館・1月1日から横浜そごう)の見学です。

薮内さんはせんとくんの生みの親でもあるのですが、もともとは仏像修復の専門家であり彫刻家です。恥ずかしながら薮内さんの作品をいままでよく理解していなかったのですが、この世に様々に事象に介在するものとして「童子」というものを考え、事象や現象の背後に童子というものがいる(人によってはそれを気とか霊という)という理解でものごとを観ている、という趣旨の説明書きを読んで、言葉に説明できないのですがなんとなく考えてることが手に取るように理解できました。守銭童子という作品があって、吾唯足知と書かれた銭状・硬貨のようなものを童子がしっかり抱えてる・何か考え込んでるような様子の作品なのですが、人が内心お金を前にあれこれ考えてるとしたらこんな顔かなあ、と思わせる作品です。人の奥底にある、目に見えない不可視のものを、童子というモチーフで描こうとしてる作品といえばいいかな。もちろん仏像の修復から出発なさってるので、それらの作品もあります。

呉から百済を経由して日本に伝わってきて、仏教行事の祭礼の余興としての仮面劇に伎楽というのがあったのですが、いまは仮面と装束しか残っていません。奈良1300年記念のときのせんとくん誕生をきっかけに、薮内さんが関わった平成伎楽団がうまれ、その仮面および衣装も展示されてました。写真はせんとくん西遊記沙悟浄です。

右はじにいる迦楼羅さんが個人的にすごくお気に入りなのですが、それはともかく。

平成伎楽団の部分だけ写真おkだったので、撮影してきました。

九尾の狐です。さいしょは乗り気ではなかったのですが、不思議なもので判るようになるといいものをみたというか、ひどく刺激的でした。
[春日大社]
なんとか過ごせたことの御礼に春日大社へ。

なんべんも来てて気が付かなかったのですが、本殿のそばはイチョウがけっこうありました。イチョウは燃えにくい木ですから、そこらへん考慮して植えてるのかも。

もうちょっと居たい気もしたのですが、封印して東京へ戻りました。