インクラインの花見

土日をつかって京都へ行っていました。
○遡及日誌第1日目
伏見稲荷泉涌寺雲龍院】

まず最初に、京都に来るとお参りすることが多い伏見稲荷

千本鳥居というひたすら赤鳥居が密集して続く区間があります。若干の異空間なせいもあって、写真を撮ってる人がけっこういました。育ったまちの鳥居は無地で最初に来た時は赤鳥居の連続に違和感があったのですが慣れちまうと気にならなくなりました。慣れって不思議です。

伏見稲荷から京阪電車東福寺駅を経て泉涌寺へ。駅からけっこう歩くのと観光ルートではないせいかほとんど人が居ません。

泉涌寺のなかに雲龍院というところがあって、庭のほか、写真はありませんが走り大黒という大黒さんを見学してきました。大黒さんというとニコニコしてるのが相場ですがここのは憤怒とはいわないもののなぜかきつい顔で、ハスの上にいることはいるのですが一歩踏み出してる、表現として適切かどうかは別としてとてもせっかちそうな大黒さんで不躾ながらついまじまじと見てしまったんすけども。

北朝ゆかりの場所でもあって位牌を安置する霊明殿ってのがあってその霊明殿の前の石庭は菊の紋様となっててるのですが、灯籠をなんでそこに置いたのか、凡人にはちょっと謎でした。
琵琶湖疏水
東福寺から京阪と地下鉄を乗り継いで蹴上へ。

写真は琵琶湖疏水の蹴上船溜まりです。琵琶湖疏水は琵琶湖から京都まで水を引っ張ってきてるのですが、水路でもあって船で蹴上まで来て、

蹴上で船を車両に乗せて線路の上を下がりいまの京都市動物園のあたり、通称南禅寺船溜まりまで移動させていました。

でもってその線路をインクラインと呼ぶのですがもちろんいまは廃止されています。疏水の水をつかって水力発電も行われていたのでインクラインはそれを動力源としていました。

でもってそのインクライン跡の脇は桜が植わってるので花見にはもってこいの場所です。

ただし線路の上を歩くので、転びそうになるのがおっかないので上ばかり向いていられませんが。桜はともかく疏水の話をすると

疏水は導水管を流れてて

桜の木の下をかすめながら

南禅寺船溜まりへ。蹴上で台車に乗せた船を下してふたたび船運の出番だったようです。もちろん今はつかわれておらず、そこにある断片から想像するだけですが。つか、京都が面白いのはその断片がいくつも転がってて、推測する楽しみがあるところです。
【鷹峯】
天気が若干怪しくなっちまったのですが、鷹峯の光悦寺というところへ。

安土桃山時代古田織部という武将がいて、その古田織部に近かったのが本阿弥光悦という(絵師の俵屋宗達にも影響を与えた)工芸家いて、その屋敷跡に光悦寺があります。工芸家と書きましたが茶碗も作っていて諏訪の美術館や日本橋の三井の美術館にそれが現存します(実は見にいったことがある)。
光悦寺には光悦が関与したとされる垣根があります。

垣根の高さは手前が高く、奥が低くしてあって、さらに曲がってるので傾斜のある狭い土地を巧い具合に視覚の錯覚を利用して若干広くみせてあります。ちょっとしたテクニックなんすが、なんかこう私は、過去の人が考え出したテクニックに唸ってしまうところがあります。でもって光悦寺は大学生のときに初めて訪問してからなんとなくお気に入りの場所で、久しぶりに再訪しました。

鷹峯にある鷹峯街道を南進すると見えてくるのが御土居です。秀吉が京都を囲うように作らせたもので、他には北野天満宮にも残っています。俗にこの御土居より御所よりを洛中、御土居よりそとを洛外とよびました。写真の左が洛中、右が洛外に該当します。鷹峯街道は学生時代に歩いてる道なのですが、そのときはまったく気がつきませんでした。せんだって放映されたブラタモリで触れられてて、外から見学。
さきほど触れた光悦寺は洛外になります。でもって光悦寺周辺は家康から本阿弥光悦が与えられた場所です。光悦は親しかった仲間などを鷹峯に呼びちょっとした工芸家たちの集積地のようなものができます。考えようによっては家康は(茶道にのめり込んだ秀吉と異なり)工芸とか芸術をよくないものとして疎んじていたのかな、などと愚考するのですが。もっとも内と外というのが、当時どれほど意識されてたのか、いまとなってはわかりませんが。

若干離れたところにある御土居の続きの部分です。斜面には竹が植わってて、ブラタモリでは建築資材として流用していたとしていましたが、工芸品を作るにはもってこいだったのかもしれません。
【堀野記念館】
御所の南にある京町屋を利用したキンシ正宗という日本酒メーカーの記念館を見学しました。

道路に面している2階の部屋がけっこう低いです。よく商人が武家を見下さないため、といわれるのですが、2階部分の窓の柱は黒い漆喰で塗りこめられた虫籠窓という作りになっていて、瓦を含め、いちおうの防火対策になっているともいわれています(うまく説明できるかどうかわからんのですが炎は下から吹き上げるので2階に飛び火しやすい)。でもって中に入ってもやはり低かったです。居住性より防火を優先してたのがよくわかりました。

京都はわりと水が豊富なところで、堀野記念館にも井戸から地下水がわき出ています(モモノ井というらしい)。もっとも醸造場は伏見に移転してていまは麦酒のみ製造してるのだとか。ちなみに試飲も出来ます。美味かったです(本醸造のほうは不思議と芳醇な広島の酒に近かった)。
○遡及日誌第2日目
【スマート珈琲店
この日は朝めしを外で食べることにして、本能寺のそばにあるスマートコーヒーという店へ。

有名店だったのか(知らずに行った)開店と同時に満席に近く、そとには行列が。ホットケーキのセットが1000円でΣ(゚Д゚)!となったのですが、でも適正に思える程度の相応の美味しさで、これは行列できるな、と妙に納得しました。コーヒーはずっと控えてたので久しぶりのコーヒーはほんと美味かったです。外国のサイトにも紹介されてるのが日本語以外もちらほら。ゴージャスではないけど満足度の高い朝食のあとは寺町通を南へ
【錦天満宮の鳥居】
寺町通は何回か通ってるはずなのですが、ブラタモリを視聴するまで全然気がつかなかったのが

天満宮のところの、ビルにささった鳥居です。鳥居のある道路の敷地は私道なのかな・ビルは錦天満宮がもってるのかな、とか要らんことを考えちまうのですが、ついまじまじと見ちまいました。
【雨】
ホテルをチェックアウトしたあとは雨がひどくなってしまったので京都文化博物館というところへ。洛中洛外図に関する展覧会をやっていて室町期や桃山期のものと江戸期のものを比較して見学できました。(おそらく)応仁の乱によって荒廃し(秀吉らの手が入り)そこから変化した様が、なんとなく理解でき、疏水ができた明治期の変化も考えるといまの京都が100年後同じではないんだろうな、というのも想像できます。

ここのところ忙しく、花見は日本橋でもできるので京都まで行かなくてもいいかな、って思っていたのですがいったん東京を離れちまえばあんがいリフレッシュできるもので、もう少し居たい気分を封印して、ひるめしを食べてから午後の飛行機で東京に戻りました。