こんなことを書いてもつまんないと思うもののどこまで書くかという話になるんすが、ちゃんとかくとあまり体調がよくないのと、ストレスがたまり気味で、ほかの人がどうやり過ごしてるのかわからないけどややこしいときのやり過ごし方が判んない、つまるところちゃんとできない人間なので、私は身軽なのをいいことに軽く東京を脱出しました。いくつか抱えてることのうちの軽いものの一つにめどがついたので、自分へのご褒美に意味もあります。で、最初の目的地は伊勢。

伊勢神宮の外宮です。橋が結界になってまして、橋の向こうが外宮になります。
伊勢神宮というのは(ややこしいんすが)おおまかにわけて天照大御神を祀る内宮と豊受大御神を祀る外宮にわかれてて、さらに内宮と外宮にいくつもの関係する神様を祀る宮がありまして、それらの全体を神宮といいます。で、そのなかのいわゆる[外宮]へまず行きました。伝統というか、風習というか、外宮先祭といいまして外宮に行くのが一般的です。なんで外宮が先なのか、というのは内宮にいる天照大御神豊受大御神のいる方を先に、という御神託をしたからだ、という説があります。天皇・皇族も同じだったりします。豊受大御神はもともと丹波にいたのですが、天照大御神が迎えた神様です。天照大御神の食べる大神饌をまもる神様かつ(いわゆる)産業の神様です。
外宮の豊受大御神のいる御正宮の写真を結界のある門の外から撮りたいとおもったのですが、ひっきりなしに参拝客が絶えません。どうしても人が入ってしまうので断念。ちなみに朝7時台の話です。ここらへんすごいよなー、と思うのですが。

だれも見向きもしないこちらは新御敷地といいます。もうしばらくするとこちらにいまあるのと同じ、新しいやしろが建ちます。伊勢神宮の場合、持統天皇もしくは聖武天皇のときから、式年遷宮という永遠に手を入れ続ける思想というか、無限に続けるサイクルがありまして、20年に一度建物をすべて建て替え、神具も新調します(ちなみに出雲は60年)。いまそれを作ってまして、壁の向こうでは準備が進んでます。で、常若ともいわれるんすが、応仁の乱のあとの断絶をのぞき、聖武天皇の時代からあるものをそのままの姿の同じ建物を20年おきにずっと作ってます。

正宮のほかに、いくつか別宮とよばれる神様が祀られてる場所がありまして、ここは風宮と呼ばれるところなんすが、ここもやはり遷宮をします。

となりに新御敷地があります。ここにやはり同じものを作ります。いまあるものは取り壊します。神宮の領域ではそれを徹底的にやるのです。
この、作り続けるシステムはなんのため、といわれると非常に説明が苦しいのですが、どちらかというと日本の神様というのはキレイとか清浄と親和性が高いんすけど(以前外人さんに説明するのが難儀だったので今でも説明できないのですが怒られそうなことをあえて言うと)たとえていうならなにかありそうなデートの前に丁寧に身体を洗って、おニューの勝負パンツをはく、あのときの身体にみなぎる感覚を維持するのにも近いかもしれません(どんなやねん、といわれそうですが)。
つか、目の前にあるこのやしろは何百年もなに一つ変えずに続けてここにあって、この先もなに一つ変えずに続けてここにあり続けるのです。同じものの連続なので、過去、というものがあることはあるんだけど、過去も今日と同じなので怪しくなってきます。同じくらい、同じものの連続なので、未来ってのもあるはずなんすけど基本このままですから今日とおんなじで、未来ってのがあるのかどうかも怪しくなってきます。ここはなんだか考えれば考えるほどそのままが連続する不思議な(目が回りそうな)場所です。不思議、と思うのは頭が弱い俺だけかも知れませんが。去年今年つらぬく棒のごときもの、ってのを思い出したんすが、ここでは現在過去未来ってのはほんとは棒ではなくてつねに一定の日常なのかもしれないんすけど。

ほんと、静かな森の中にあります。でも静かだけど、目の前にあるものをみてると、なんだかよくわからないすごーいところにいるぞ、ということだけ理解して、外宮を参拝しました。


次は内宮を目指します。バスが朝はそんなに多くないので、待ってるより歩くほうがはやいかなあ、と思って歩いてゆくことに。

外宮内にはしめ縄がみあたらないのですが、外にはあります(不思議なことに天照大御神の地元なのに蘇民将来なので、スサノオを祀ってるのかなあ、と)。観光案内所の上にあったしめ縄飾りを撮ったのですが、ご覧のように独特の形をしています。訊いてみたんすけど高千穂と同じで、どうも年中かけるようで。

一時間ほど歩いて内宮へ。流れてるのは五十鈴川という川で、橋を宇治橋といいます。川は代えることができませんが橋はもちろんここも遷宮の対象です。

五十鈴川べりの手洗い場。いちおう別途清めの手洗い場はあるんすが、本筋はここで手や口を清めるのが本来のようです。

忌火屋殿という建物です。神さまに供える神饌の調理の場所です。建物の中で御火鑽具(みひきりぐ)というのを用いて火を起こすのですが、その道具は登呂遺跡から出てきたものに似てるという説があるので気が遠くなってくるんすがそのころからの風習がずっとつづいてるのかなあ、と。

その先にあるのが内宮の御正宮。階段の上、正絹の幕の向こうに神殿があります。階段の下からなら撮影可。紀元前から天照大御神がいるところです。
ややこしいことをかくと神様もそう単純ではなく穏やかな面と果敢な部分があって、天照大御神の穏やかな和御魂(にぎみたま)がいるのがこちらです。穏やかじゃないほうの、果敢な気性を持つ天照大御神の荒御魂(あらみたま)を祀る荒祭宮という別宮も内宮境内にあります。ひとつではまとめることができなくて、でもってどっちかが欠けたらうそなんだろなーと、その複雑さが妙に腑に落ちたんすが、それはともかく。

もちろん当然のことながら、ここも式年遷宮の対象です。となりでは着々と準備が進んでいます。


なんだかすごいものみたぞ、ってなこと以外は混乱したまま内宮そばのおはらい町へ

あまりにも有名な赤福本店。江戸期から続く、和菓子屋さんです。

へー、食べれるのかーと思って入店し、とりあえず優雅に朝のティーブレーク(違


伊勢を後にして、近鉄電車で奈良の田原本という街へ。

下つ道という古代から続く道をレンタサイクルで北上して

唐古・鍵遺跡というところへ。最大8メートルの幅がある環濠式の集落が2000年前にあったと思われてて、ため池の中にここらへんから出土した土器に描かれた楼閣が復元されてます。銅鐸の石製鋳型であるとか、工房あと、木造大規模建物の遺構が発見されてます。もちろん詳しいところは鋭意発掘中・研究中らしいのですが、とりあえず目にしたかったので来ちまったのですが。研究者でもないのにバカだなー、とは思うのですけども。

それほど遠くないところにある今里の浜。鉄道が開通するまでの、物流を担った大和川水運の中心地のひとつです。実際、さきほどの唐古・鍵遺跡には吉備の土器が入ってきてるんすけど、この川をつたって瀬戸内とつながってたのかもしれません。
でもあんまり深くありません。ずっと前から浅い大和川がどうやって水運を担ってたのか(大きな河川のない飛鳥や藤原京へどうやって物資を運んでたのか)、ってのがきになってたので、田原本町ミュージアムへ。

ドシロウトの素朴な疑問に、丁寧に答えていただけたんすが、途中で底が浅くても大丈夫なような小船に大和と河内の国境で乗せ換えて運んでたようで、飛鳥や纏向などで運河の跡というのがあちこちにあるのをしってたので小舟に荷物を載せ替えて、というのは、完全には納得してないのですが、なんとなくわかるような気がしました。ただ奈良盆地のあちこちのなぜため池が散在するのかとか、水に関して非常に気になるお話をお伺いできて、ためになりました。


近鉄線をさらに北上して京都へ

大谷大学で開催してた俵越山展へ。越前屋俵太さんが書家に転向してて(いま大谷大で講師をしてらっしゃるらしい)その個展を見学してました。
書きたいように書く、ということを京都の城陽を拠点にやってられたのは知ってたのですが、お話をお伺いすることもできて、書きたいように書いて納得がいった作品てどれくらいありますか、ときいたところ、ほんとに集中して「後先のことを考えないで書きたいように書いてる」とのことで、ほんと徹底的に追求してやってるんだなあ、と正直目が点になりました(ただし正直に書では食えてないんよ、と笑ってらっしゃったんすが)。
映像があるから観るかい?といわれて、御厚意に甘えて編集してあるメイキング映像を観させていただいたのですが、田舎道の真ん中をほぼ一直線にできうる限り力強く書く作品は、あえていうなら狂気じみてるのですが、その書きたいように書く・痕跡を残す狂気のようなものがうっすらなんとなくわかるのです。で、作品のうち単純なようで実は難しいかもしれない「一本線を引く」というモチーフにかなりひっかかりというか、鉱石をみつけたようで「一本線を引く」作品が多かったっす。実はある「一本線を引く作品」を持って帰りなさい、といわれたのですけど、すでにある作品を東京まで壊さずに持って帰る自信がなかったので、丁重に辞退させていただいたのですが、でもってそのなかでも衣類に描かれた作品が印象的でした。つか、すでに文字ではないのですが、内面の強さがでてるというか、すごく力強く、目を引いたのです。

表現ってのはなんなんだろ、ってのが前からの基礎的な疑問なのですが、たぶんそのうちの一つは狂気のようなものを含めて内面を強く出すことなんだろうなー、と思ってて、まさに越山さんの作品はそうだったので、ちょっと氷解したというかなんというか。
あとさき考えずに書かれたその狂気のようなものをみて「あーそういうことかー」となんとなく勝手に理解できたんすけど、でも表現というのは「伝える」ということでもあって、ご本人を前にある「一本線を引く」作品をさして、これがすごくいいです、と伝えたら、なんかあるんだろうな、とおっしゃってたのが印象的だったんすが、どこらへんがどういうふうにいいか、ということを口頭で記述できても、なんで面白いと思ったかとか、巧く言葉にのせられませんでした。「伝える」ことは「文字でないもの」で伝わることもあるし、「文字にする」とか「言葉にのせる」とかではとかではつねに伝わるとは限らないことを考えると、表現とか「伝える」ってのは難しいことなのかもしれないとか、すごくあたりまえのことなのかもなんすけど、再確認させられたんすけど。
貴様そんなことも知らずに文章書いてたのか、って怒られそうですが。


翌日はふたたび奈良へ。もともと唐突にでてきててノープランだったのであんまり考えてなかったのです。めざすは圓照寺というお寺です。三島さんの豊饒の海に出てくる月修寺のモデルです。

参道の入り口はこんなところ。

次第にほんとに深い杉木立の中を進みます。

でもって実はこの先は非公開なので入れません。あんたなにしに行ったん?といわれそうなのですが、やはり一度どんなところかを見ておきたかったのです。

どこにいるかわからない御本尊の方向へ向かって合掌して門の中をしばらく眺めてました。セミの啼くころ来ればよかったかな、と思いつつ、寂寞という言葉をどういうものだか理解してるか、っていわれると怪しいのですが、音ひとつしないところに佇んでるとあーこんな感じなのかなあ、と。

戻る途中、ひがんばなが咲いてたので、一枚。


東京に戻る前に、とりあえずまたこれたことを感謝しに春日大社へおまいり。

神無月だよ、出番だよ、とはいわれなかったものの、でもしかとされずにしかに見送られながら、東京に戻りました。