元興寺へ

○遡及日誌第1日目
名鉄のメンズ館の前にいるナナちゃんです。

前はなにも着ていないことが多かったのですがここのところおめかししてることが多く、正月らしく和装でした。
【外宮】

でもって名古屋から近鉄電車で伊勢市へ。まず最初に外宮へ。伊勢神宮はものすごくおおまかに書くと主たるやしろとして豊受大御神を祀る外宮と天照大御神を祀る内宮があり(おおまかに書かないと125ほど伊勢神宮管轄のやしろがあります)、外宮先拝といいまず外宮へ行くのがならわしです。鳥居しか映していないのは人が多かったからです。正月にはじめてきたせいもあり、甘く見ていたのですけど、近鉄の車中もけっこう人が多かったのですが外宮もけっこういて、伊勢神宮が改めてどういうところかを知った次第。

砂利敷きの向こうにみえるのが外宮の正宮の建物で、豊受大御神がいるところです。手前の砂利敷きのことろは、このまえの遷宮まで正宮の建物があったところ。遷宮のあとの14年春には建物が残っていたのですが、16年新春のいまはあとかたもありません。

おのれがそこに存在するかどうかは別として、十数年後には改めて新しい正宮が建ちます。でもって未来のことなのでやはり未来はあるんすが、それは過去と同じものです。20年ごとに右へ行き・左へ行きを繰り返し、建てては壊してを繰り返し、100年前も100年後もずっと変わることなく伊勢神宮は存在しつづけます。過去と未来が現在と同じでしかないわけで、過去という言葉と未来という言葉がなんとなく効力を失う場所なんすが、いずれこの風景が過去と同じになるとわかっていても、それでいて過去にあったものがないというのを目にすると、ちょっと唸ってしまったり。神様や建物が変わらないけどそれをみてあれこれ考えてしまうのは、脳内でなにかしら意味を見つけてめのまえのことを納得させようとしているてめえのせいでほんとは意味のないこと・意味を問うべきことではないかもしれなくて、おそらくついあれこれ考えちまう私は素直でなく・猜疑心が強く、弱いせいかもしれません。伊勢に来ると神様や建物は不変であるけど対比しておのれは揺らぎやすさを自覚し、つい思索の迷路にはまり込むのですが、ってどうでもいい能書きはともかく。

伊勢神宮は森というか林の中にあるのですが、巨木がけっこうあります。でもって今回行ってめについたのが、その巨木にへばりついてる人がけっこういたことです。ずっと観察していたら「気(エネルギーのようなもの)を貰ってるんじゃない?」とひとこと。正直いまいちぴんとこなかったのですが、おそらくそれは目に見えないものをあんまり気にしてないせいもあるかも。
猿田彦神社
内宮のそばに猿田彦神社というのがあります。

ニニギが天孫降臨をするときに道案内をした(神話がわかんないとちんぷんかんぷんですが、ともかく道案内をした)神様を祀ってるところです。ナビゲーションっていうより導きの神様で、過去に伊勢に来た時も猿田彦へ来ています。ここ数年(最後に取捨選択の責任を持つのはてめえなのですけど)仕事関係で有益な情報に触れることがあって、もちろん教示やアドバイスをしてくれた人には頭を下げているのですが、それとはまた別個になんかこう、ラッキーで済ますわけにはいかないなあと思ってて、伊勢へ行くなら猿田彦神社へ、と非科学的なこと考えて来ました。非科学的って別に私の生活はまったく科学的でありませんが。
社殿の上に「猿田彦神社」って額がかかってるのですけど(伊勢神宮は額はない)、並んでいる最中にすぐ後ろで二人連れが「あれ、あの上の文字、なんて書いてあるの」「わからない」という会話をしてて、Σ(゚Д゚;ってなったのですが(さすがに振り向けなかった)、うむ、名前なんてちっぽけなことかもしれなかったり。
【内宮】
外宮より輪をかけて混雑がすごかったので写真はほとんど撮ってません。

内宮には五十鈴川が流れていて、手を洗う場所になってるのですが、コインが投げ込まれていました。水をみるとなんで日本人はコインを投げたがるんすかね。また来るよ、っていう意味なのか。

内宮の(天照大御神がいる)正宮への参拝はけっこうな行列になっていて、興味深かったのは真ん中で参拝しようとする人が多くて、真ん中がさっぱりちっとも動かなくて、真ん中じゃなくて脇でもいいや、という人が脇からおまいりしていました。近くにいた神宮の警備の人に真ん中と脇ではなにか違う意味があるのですか、と訊いたら「いいえ」ということだったので、脇から参拝。

内宮が混雑してるからには前の参道のおかげ横丁も混雑していて、赤福も当然、並んでいたんすけどちょっと外したくなかったので、時間に余裕があったので食べてきました。

この日は近鉄電車を乗り継いで奈良へ。
○遡及日誌第2日目
【ならまち】
猿沢池の南に「ならまち」とよばれるところがあります

この日、いわゆる「ならまち」に、飛騨高山のさるぼぼに似た身替わり猿をかえしにゆくミッションがありました(わたしのではない)。ホテルで訊いたら庚申堂というところを地図つきで教えてくださったので、まずそこへ行ってみることに。

地図を片手に歩いてしばらくすると庚申堂を見つけることができたのですが、お堂は無住です。

すぐそばにさるぼぼに似た身替わり猿を売ってるところと思しき住居があるのですが、閉まっていてちょっと途方にくれちまったのですがこどものつかいじゃあるめえしそのまま帰るわけにもいかないのでとりあえず元興寺を目指すことに。

ならまちの周辺が元興寺の境内であることは学習していたので元興寺にゆかりがあるのではないか、という推測なんすけど。

一軒だけ町屋を公開しているところであいてるところがあって、来訪の趣旨はちがうもののそこで訊いてみたのですが「いやそんなものどこかのお寺や神社でお炊き上げしてもろたらええやん」という返答。そんなものかなあ、とおもいつつ、その町屋を見学をしてました。東大寺だか西大寺だかの古材をつかっているなど調度品が地味にはんぱなく、なめまわすように見学していたのですが、問わず語りで元興寺や奈良のことになりました。興福寺東大寺などに比べて元興寺は衰退していくのですが、その過程で資金繰りに苦しんだようで、周辺の商家に寺に所有物を差し出して資金の融通があって存続してて、ですから周辺の個人宅には重要文化財だとか国宝級のものがいくつかある家がある、とおっしゃっていました。どこまでほんとかわからないけど皇族がみえて、それが個人宅にあるのにびっくりしていた、とも。それだけの財力がどこから出てくるのか不思議なので奈良はなにで栄えたのかっていう質問をしたのですが、どうも奈良は麻の加工が盛んで(その家屋の持ち主は麻加工につかう石臼を庭石に転用していた)、江戸期は奈良さらしで有名となり(その麻は奈良のものではなく新潟や山形から船で来た)、明治期になると奈良は蚊帳の一大産地となりけっこう儲かった、とのこと。もっとも蚊帳は今は売れなくて麻加工も細々とやっている程度らしいのですが(その蚊帳生産の技術を転用してふすま地を作ってるメーカーもあるとか)。現代の奈良の繊維産業のほうへ話がかなり脱線したところで(でも興味深かった!)お礼を述べて元興寺へ。なんとなくお炊き上げすればいい、ってのは違うのではないか、と思えたからです。

元興寺で来意を告げると引き取ってもらえたので一件落着だったんすが、知らないことを知れたのは猿に導かれたのかもしれなかったり。
春日大社
元興寺から春日大社へ。

時節柄仕方ないのですが、テロ警戒の看板が。単純に信仰の場所へのテロは止してほしいなあ、とは思うのですがここらへんは神頼みしかできないかもしれません。

ひるめしを食べて、もうちょっといたかったものの、そういうわけにもいかないので午後の飛行機で帰京しました。