門の外へ

ちょっと前から準備をして休みが取れたので、四国へ行ってきました。巡拝です。
去年の秋に愛媛の65番三角寺をうったのでほんとは次は66番雲辺寺なのですが、80まではすでに一度廻っているので今回80番讃岐国分寺からうちはじめました。
本来は数字のナンバリング順に札所を巡拝するのがスジなのですが、わけあって「休んでも良いけどすぐ東京に戻れる場所にいる必要がある」時期があって(案の定呼び出し喰らってしまった)香川県西部をアクセスが大変な高知よりさきに廻ってた時期がブログをはじめる前にあったのです。
今回、もう一度歩こうかと考えたのですがちょっとそんな贅沢を云ってもられないかな、と。



○遡及日誌
第一日目
前夜、東京駅を20時半前に出る夜行バスで出発し、6時前に高松に着きました。予讃線に乗り換えて国分という駅で下車。
80番讃岐国分寺は駅のそばです。

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国分寺っていうのは、各地に聖武帝が建てさせたアレです。本堂はさすがに聖武帝が建てさせた創建当時のものではありませんが鎌倉時代に建てられた古い建物です。境内は広く、松林が良い雰囲気です。家族連れで巡拝してる人がいて、小学生にもなってない子が大きな声で「おんぼうじしったぼだはだやみ」(我は菩提心を起さん)なんてのが灯明を点けてるときに聞こえてきてなんか微笑ましかったです。意味は判ってないだろうけども。



国分寺を出て次の札所を目指し、歩きはじめました。次の81番とその次の82番は五色台という山の中あります。たぶんあれかなー、と思っててきとーに撮った写真です。五色台の尾根の標高は400メートルくらい。高尾山より低いはずですから、たいしたことはないかなー、とおもっていました。


たいしたことありました。勾配がわりとありました。尾根の近くで撮った一枚。ため池がけっこうありますのがわかるでしょうか。讃岐というのは水不足には昔から結構苦しめられてるところらしいです。空海讃岐国司のとき対策として満濃池というため池を造成しています。嘘かホントかわかりませんがいまは徳島の吉野川から香川に向けてトンネルを掘って水を供給してるんだよー、なんてことを前にどこかできいた覚えもあります。


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81番白峯寺です。山の上の小さな寺を想像してましたが門は兎も角、境内はけっこうでかいです。

本堂から撮った写真です。瓦が写ってますがその先には、崇徳上皇の廟所、頓証寺殿という建物があります。平家物語雨月物語を知ってる方はご存知かと思いますが、昔、保元の乱というのがありました。崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟)との皇位継承摂関家藤原家の家督争いの話ですけど、崇徳上皇は負けて讃岐に配流となりました。失意のうちに、京に戻ることなく讃岐で崩御します。遺体も京に戻ることなく、この白峰寺のそばに埋葬されました。崩御の後、京では世情不安定となり崇徳上皇の怨霊のせいでは?なんてことになってきます。


雨月物語では西行に怨みを語る場面があったりします。ここはその場面の舞台?です。恨みを語る崇徳上皇に対して仏法で反論する西行法師ですけど、会話は噛み合わない。恨みって、なかなか難しい心情です。理屈じゃないんすよね。

さくらが満開でした。なんかこう、キレイだなーとは思うのですが、崇徳上皇の話があると、単純にキレイだなーとだけは思えませんが。



五色台のある程度は、陸上自衛隊善通寺駐屯地です。これは兵舎のあと。

で、自衛隊側の敷地内に石仏というかお地蔵さんが捨てられてます。たぶん、駐屯地として接収したあと邪魔な敷地内の石仏を集めたものと思料。けどさー、なにも見える場所に放置しなくてもいいやん、とおもうのです。仏教徒に対する挑発なんすかね。


鉄板のところは弘法大師が掘ったという閼伽井の井戸です。
お地蔵さんは何のためにおいてあるかっていうと、丁石という目印なのです。寺までの距離を知らせるためのもので、丁は確か昔の距離の単位だったはず。たぶん先ほどのも丁石がわりのお地蔵さんです。



根香寺を目指します。この頃、どうでもいい話をしながらなんとなく自然発生した4人くらいで集団で歩いてました。
前3人はちゃんとした格好ですが私は黒いデニムに白いタートルネック姿でした。




82番札所根来寺。自然発生的4人組はひとまず解散。
ここで団体のバス遍路の人たちに遭遇。統制がとれてるようでとれてないような、静かじゃない、エネルギッシュな団体さんでした。時間がないから男子トイレに入るしかないわよねー?とか、そういうおばさんもいたです。なんで私に突然、同意を求めてたのかは謎ですが。ツアコンさんと間違えたか。




根香寺をでて、少し下ると瀬戸内海が見えました。霞んじゃってキレイに写真は撮れませんでしたけども。これから五色台を降りるために下り坂が続きます。

さくら(だと思う)が通せんぼ。

ほんと桜が満開でした。

外人さんがこの下で宴会中でした。よい日本の文化を積極的に取り入れてるみたいです。


これは単なる路地ではありません。江戸期ぐらいから続くへんろみちです。
五色台を降りると平地なんすけど、難儀なことに住宅街と田園地帯をこまめにこんなみちを曲がりながらへんろ道が続きます。道に迷いそうになったことが何度か。住宅地のほうが私は迷い易いです。


83番札所一宮寺にはだいぶたってから到着。居合わせた人に訊くとやはりみんな地味に時間がかかってました。一宮という名前が表すようにもともとは讃岐一ノ宮・田村神社別当寺です。神様を仏法で守る役割がありました。で、香川といえば「こんぴらさん」が有名ですが「こんぴらさん」が一宮でないっていうのが意外です。もっとも東京の神田明神も一宮じゃないことを考えるとおかしくは無いのですけど(武蔵一ノ宮は埼玉県の氷川神社です)。
余談ですが、ここから「こんぴらさん」の琴平宮までは電車で30分もなく、行こうか行くまいかちょっとどうしようかなー、と思案。ちょうど市川海老蔵他出演の「こんぴら歌舞伎」を琴平宮の下の金丸座で興行中でさぞかしにぎにぎしく一見の価値はあるはず、なんて思ったものの、観光で来たわけではないしなー、と寄り道しないことを決断。

一宮寺から高松へは大きな幹線道路を歩き、屋島を目指します。

国道の橋の上からみた屋島。なんかこう、コタツみたいですがよくみると台形というか不思議なカタチですね。
この日は屋島のふもとの琴電潟元駅まで歩き、琴電に乗って高松中心部に戻ってユースホステルに宿泊。


第二日目

この日、高松は予報は降水確率80%という予報。朝6時に目が覚めて6時30分に宿を出て琴電潟元駅へ。潟元駅から歩きはじめます。

のっけから、けっこうきつい旨の標識が出てました。21%です。100mで21m上がりますってやつですね。で、けっこうきついもののどういうわけかお年寄りの散歩コースになってまして、途中休んでたら数人から声かけられました。もうそろそろで結願だねー、どっからきたのー、とかです。いままでもよくあったのですが、こういうとき「東京から来た」というと「遠くから偉いねー」となる。
や、偉くもなんともないんですよ。だって、誰かに頼まれて歩いてる人っていないからです。わけあって廻ってる人もいたり、何かを探してる人もいます。たぶん死に場所を探してるのかなーって人もいます。何の因果か私は四国を廻るようになりましたが、四国巡拝が偉いかって云ったら、偉いかどうかはわからないんじゃないですか?と答えるようになりました。廻ってることが現実に誰かの役にたってるわけじゃないし、井戸を掘ったとか何か善行をしたとかじゃないからです。でも四国ではいろんなものをみて聞いて勉強をさせてもらいましたといって、そんなようなことを答えると大抵四国の人は傾聴したまま反論するわけでもなく微笑します。こういう問答で納得してくれたのかどうかはわかりませんけど。屋島じゃないですけどたぶん半分冗談で煩悩を捨てることが出来たかい?なんていう人もいたのですが、溺れるのはまずいけど執着とか煩悩を捨てるって出来るかっていったらできないと思うのです。そもそも煩悩があったからこそ、人間って前に進めるんじゃ?なんて思うのですけど。これもまた、いうと傾聴したまま微笑されちまうんですが。
なんというか、人間って余力とか気力があるときに叱咤したり励まされると、また強く立ち上がることができる気がします。その余力と気力って、良い方向へのなんとかしようという煩悩とか執着だと思うのです。煩悩、執着が捨てるべきものっていうふうには思えなくなりました。

この四国の人の傾聴、微笑って云うのからも学んだことがあります。
そういう煩悩や執着もない、気力も体力もない人間に励ましたり叱咤したりしても逆効果でしょう。そして他人の痛みのようなものがうっすら想像できるにもかかわらず、その人の痛みを自分の力でどうしてもなんとかすることができないとき、そういう時何をすべきなのかっていうことを四国でずっと考えてたのですが、そういうとき、そばで傾聴するってのがほんとは重要なんじゃ?と考えるようになりました。話すほうからすると傾聴されてるってことが実はかなりプラスに作用されるのではないか、と考えるようになりました。ひょっとしたら江戸期から四国に来たいろんなことを抱えた人の話を聞き、受容してく上で編み出した姿勢が傾聴であり微笑であり、ってことなんだと思うのです。それにかなり救われた人がいるんじゃないか、と想像します。
私はどちらかというと他人に関わりたくなるタイプのようで、文七元結の話じゃないですけど、目の前で身を投げようとする人がいたら必死に説得しようとする人間です。でもそばに行って傾聴するだけでもいいのではないかなー、と思うようになりました。


歩いてて他にもいろいろ考えましたが、死とか病気とか理不尽なものにであったとき、どうすべきか、なんてのは答があるようで無い気がします。ここらへんは人によって違ってくるでしょう。よほどいろんな人に訊いてみたい誘惑があったのですが、自分には問うのがまだはやいと思って誰にも訊けなかったです。



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84番屋島寺に着いた途端、雨が降り出しました。写真は宝物殿です。朝早くて当然あいてません。ここでお寺の方とすこし話し込んでいました。勾配のある坂はきつかったですが寺自体は平坦地に立っていました。屋島寺はその名の通り、平家物語で有名な屋島の地に立っています。周辺には屋島の戦いに関する史跡もいくらかあるらしいのですがスルー。

境内の蓑山大明神・太三郎狸。おそれおおくも四国のたぬきの総大将であらせられます。

観てったほうがいいよー、といわれた桜。けど、品種は不明。キレイですね。

雨が降り出したので急坂を避けて登ってきた道を下がります。

猿がいました(枝にいます)。五匹ぐらいいて、悪さはしないそうです。狸の総大将がいる手前、ブイブイいわすことが出来ないのかも。



麓に下りたらどんどん風雨が強くなってきました。屋島に登る途中、午前中は大丈夫よー、なんていってた中年のおばさんがいたのですが、ぜんぜん大丈夫じゃなかったです。高松市内で買ったポンチョと持参の折りたたみ傘で歩いてましたけど、ポンチョが下からまくられちまい傘もきちんとさせない状況でした。

次の札所85番八栗寺も山にあります。
実はここで札所へ納める納め札という遍路用品を見知らぬ女性にかなりの枚数渡しました。1番で買った200枚が56番の今治泰山寺で尽きてしまい200枚追加購入してたのですけどここで85番で残りが100枚以上ありもうそれほど多くは必要ないと判断してのこと。暫らく来れることなどないでしょうから残してもしょうがないし、お寺に在庫がなく困っていたっぽいのでちょっと余計なことかなーと思ったものの、もしよかったら、と譲ったのです。
したらどこからともなく風格のある中年男性が2人近よってきて挨拶を受けました。その2人とも100回とか150回以上廻ってる大先達(おへんろを導く人)さんでした。そんなに廻ってる人とははじめて会話。何がきっかけで縁ができるか判らないなー、と思わされました。


八栗寺を下りて志度寺へ向かいます。途中、大量の降雨と強風に耐え切れず、牟礼というところの道の駅で暫らく雨宿り兼大休止。「世界の中心で愛を叫ぶ」という映画がここらへんでロケをしたってことを途中で知ったものの、そもそも映画に興味がないのでスルー。



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86番志度寺です。こんどは平地の寺です。大きな寺で、五重塔がありました。ここの本尊は近江から流れ着いた流木から彫ったとされる十一面観音です。近江からってことは、淀川を通って瀬戸内を経てってことなんでしょうけどうーん、どうやって近江って判ったのか、謎。怖くて訊けず。ここでバス2台分の団体客に遭遇。一台は神戸、もう一台は北海道から。70人くらいいたと思うのですが、それがいっせいにもぞもぞと雨にぬれぬように動くので彼らが終わるまで待機。

居なくなったら静かになった。
志度は平賀源内の里でもあるんですがやはりちょっと興味ないのでスルーしました。でも、何で栄えてたのかは判らないけど、繁栄してたのは判る街だってのは良くわかりました。


残すところあと2つ。雨の中、また歩きはじめます。

毎度おなじみになりました、遍路石紹介コーナーです。

明和三年(1766年)に出羽国の清水九兵衛という人が建てた道しるべです。江戸期に秋田から讃岐まで巡拝に来てたっていう事実がなんかすごいなー、とおもうのですけど、それが志度寺への道しるべとして現役で残ってることがまたすごい。



長尾寺は街の中にある少し大きめの寺でした。ここも平地です。着いたとき、陽光はさしてるのですが、雨はしとしと降ってました。

この日はこの長尾寺の門前の民宿に宿泊。宿のテレビでこの日実は四国はけっこう天気が荒れてたことをはじめて知りました。知ってる土佐清水のスーパーが被害にあってるのを見てびっくり。


第三日目
翌朝、朝5時半起床6時出発です。最後の一つを目指して歩きはじめます。
けど、雨が振りそうな天気です。雨具が優れていても、やはりどこか雨はしんどかったりします。まず、道端に気軽に腰を下ろせませんしつまるところ思うように休憩がとれません。それに地図も出しにくい。衣服もぬれますしね。なんか文句ばかりですけど一日中阿讃山地を歩くので降っては欲しくないなーと思ってました。
ぬれないうちに距離を稼ごうとしたら呼び止められ「お接待」で配達中らしい中年の男性に新聞を渡される。その人曰く、君は顔相がいい、私は顔相はわかる、とか。根拠はわからぬまま、話を聞いてるとあまり理論的でなく、原罪意識のある宗教で生まれながら罪を背負ってるのはナントカ、とか言いはじめるのでたぶんキリスト教のことをいってらっしゃるのだと思いますが、と断った上で、子供は罪は背負ってないので子供が死んでも神父さんは白衣で葬式を挙げますし、ロシア正教は原罪意識ないですよ、というと話が変わってしまった。傾聴ってむずかしいっす。

88番は山の中にありますが、かなり手前のダムのほとりに「おへんろ交流サロン」という施設があります。遍路関連の資料館になっていて、休憩も出来ました。情報を仕入れて歩きはじめます。ここで滋賀から来た中年のご夫婦と一緒に歩きはじめました。途中、30代の遍路が増えてるっていうことを話題にしてたのですけど、なんでだろうというので、仮説として現実と理想のギャップに気づかされることが多いし、どう折り合いつけていいかわからなくて迷うからではないっすか?と答える。その抽象的な答が気に入ったのかどうかはわからないものの、そうよねー私も30代は迷ったわー、なんて返答がありました。よくよく考えてみると四十にして惑わず、なんて言葉もあるんすよね。


全然見知らぬ人といろんな話したりするっていうのも、ほんと稀有な経験を四国でさせてもらったよなー、と思います。
でもペース配分が違うので、途中から先行させてもらい単独で歩きはじめました。


こんな風景を四国のあちこちで見てきました。そういや、田植えというのをはじめてみたのも四国です。

向こうに見えるのは88番大窪寺です。終着点が見えてきました。

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大窪寺に到着しました。普段どうり、今までどうりに淡々と勤行しました。
あまり感慨がなく、なんだか呆気なかったなー、という感じです。

けど、一応ここでピリオドを打ちます。私はほんとに四国でいろんなことを吸収し、いろんなことを見聞し、いろんなことを考えました。そしていつまたここにこれるかわかりませんし、もう今生では来れないかもなので、最敬礼して門の外に出ました。
大窪寺を出て歩いていくあいだ、なんだか終わっちゃったなー、ってのがありました。

遍路にでる前、私は病気やらなんやらいくつかのちょっと理不尽なものに揉まれました。人の死であるとか絶対的な理不尽なものとかの抵抗し難いものによって空いた穴ができました。それを遍路や修行のようなもので埋めることが出来るか、っていったらへんろ道を歩いてる最中や勤行の最中は確かに埋められました。けど、終わっちまって何が残ったかっていうと、歩いてきた経験といくつかの智恵くらいです。ほんとそれくらい。大きく開いた穴は埋まってないです。

真言宗を私は信仰してるわけではありません。日の出から日が暮れるまで歩き勤行をして真言宗の人たちが修行する愛媛の山奥や高知の海辺のルートを歩かせて貰って、何かを知ることができたか、っていったら、実はちょっと心許無いです。生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なりというのを知って四国で知ろうとしたのですが、ちょっとでもわかったかというとあまりにも問題設定が広すぎたのか、これもまた心許無いです。

三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
  秘蔵宝鑰 序より

迷いの世界に狂える人はその狂っていることを知らないし真実を見抜けない者は全く見えていない者であることがわからない。人は生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめがわからないし、死に死に死に死んで死のおわりをしらない、っていうこの言葉の意味が、うっすら判りはじめたくらいです。でもたぶん、私は何も見えてない状況に近いし、狂ってるのかどうかもわからないです。どちらにせよ私は何にも明らかにしてないのに近く、四国以外でも日々勉強しないとまずいはず。それくらいしかわからない。それだけ判っただけいいのかもですが。


大窪寺は一日4本ほどバスが来ますが私は歩くことにしました。右手の山の向こうは徳島です。

阿波と讃岐の国境です。手前が讃岐、向こうが徳島。

なんの花だか判らないけど、この日は降誕会(潅仏会)で、よく「はなまつり」っていうのですが、あわせたように花がきれいでした。


えっと、お礼参りをする必要はないって説くお寺もあります。でも私は世話になった人が居る徳島へお礼を述べに戻ることにしました。

高速道路の向こうに見える阿波の山並みがなんだか懐かしかったです。

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4時間ほどで徳島県阿波市の10番札所切幡寺へ。ここではじめて同年代の同じ道を行く人に私は遍路として声をかけられました。で、この境内で話をしてお互い激励した記憶があります。このときあった人とはもう今生で逢うことがないはずですが、死ぬまで忘れないと思う。

切幡寺のこの門前町でコカコーラとヤクルトを貰ったのです。遍路としてはじめてタダでものを貰うっていう経験をした思い出深い場所。四国のいろんな話を聞いた記憶があります。たしか路線バスの存廃問題なんてのをここではじめて知ったのです。地方の問題点っていうのをはじめて具体的に知った場所でもあります。そのお店は閉まっててお話を聞いた人も不在でしたが家族の方が居て、お礼の伝言をお願いしました。

およそ40分で9番法輪寺へ。門前の今にも倒れそうなうどん屋さんは健在で、たらいうどん、という文字をみて、「盥」でうどんを食べさすの????とびっくりしたことを思い出す。
いつの間にか境内には立派な建物が出来てました。甘茶のお接待をここで受けました。甘露でした。

8番熊谷寺です。さくらが綺麗でした。しばし眺めてましたです。夕方の陽のあたり具合がなんともいえなかったのですが、写真で再現できなかったのが残念。

この日は6番まで歩き、そこからバスで板野町というところへ。やはり以前お世話になった宿に報告がてら御礼を述べたくて泊まりました。一番最初に来たときその宿でいろいろアドバイスをうけたのです。

第四日目


前夜けっこう遅くまでしゃべっていたのですが、朝5時半起床、6時出発は変わらずです。丁重にお礼を述べて出発です。
で、昨日8番まで打ったあと6番のそばまで歩き、3番のそばの板野までバスに乗っちまったのですがこのまま3から1まで歩いても面白くないし簡単に終わらすのもちょっと心残りがあって徳島観光の予定をキャンセルし、3番門前から7番まで歩き、そこから3番そばの板野までまたバスに乗り、1番まで歩くことにしました。

板野町役場のそばに居た静かな犬です。首をしゃくるようにあっち、ってやってました。たぶんみんなそっちへ歩いてるのでしょう。お遍路を認識してるものと思われ。

犬に進路を教えられたほうへいくと(ってか一度歩いたので知ってる道なんすけど)こんな道です。菜の花がいっぱい。

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4番大日寺です。
ハンセン病という病気がありますが今ほど治療法が確立してなかったころ故郷を追われた人たちが四国へ遍路として渡ってきました。このお寺は伝染を恐れずそのハンセン病の患者のお遍路を手厚く保護していた、という話があります。それを知ったとき一瞬福音のよきサマリア人の話をおもいだしたのですけども。

5番地蔵寺。かなり広い敷地を持つ大きな寺です。ほとんど人が居なくて朝早いので静かでした。たまたま居合わせたこれから廻るその日が2日目の人に何点かアドバイス。靴の中敷きがあったほうが良いですよー、といったものの暫らくしてから靴屋があるかな?と思い至る。
この寺を出たあと、地元の方とちょっとだけ話しかけられる。このあたりは糖尿病患者が多い、とか。出不精な人が多くて、と愚痴をこぼされる。うーん、愚痴をこぼされてもなー、とおもったものの黙って傾聴。うまい返答思いつかず。

6番安楽寺です。改築中です。外人さんの女性が何故かいました。彼女は長野で英語教師をしてるらしい。うーん、あまり日本語が流暢そうじゃないのでこの先不安ですけどお大師様の加護があらんことを、と祈る。

ここの寺の門前には幕末から大正時代にかけ四国遍路を二百八十回歩いたと言われる周防国出身の中務茂兵衛建立の遍路石が現存してます。これは181回目のときのもの。

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昨日、お礼参りをしそこねた7番十楽寺です。ここも桜が綺麗でした。散る桜をちょっと鑑賞。5番で逢った自動車遍路の人が何故か居て、あんた早いなー、と一言。その人にいわせると自動車も便利のようでけっこう道に迷うらしいです。昨日までの山の中のお寺と違って、なんか楽でした。


7番からすこし戻って鍛冶屋原というところから徳島バスで3番のそば、板野に戻ります。とうとうほんとのラストが近づいてきちましました。けど、淡々としてましたです。

3番金泉寺です。徳島のお寺がどこか派手なのは戦国時代の兵火や焼失があって再建されたりしたからじゃないか、とふんでるのですがここは長曽我部元親にやられてます。
このお寺から2番までは田んぼの中をすすんだ記憶があります。や、逆だ。最初来たときに、2番から3番までの道が青々とした田んぼの中で、そこ歩いたのです。それが強烈な印象として残ってました。もっとも足許は革靴でしたけど。


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2番極楽寺です。この門前で根香寺で一緒だった人に遭遇。しばし立ち話して挨拶して判れます。
境内でこの日はいままで遭遇しないで済んだ団体のお遍路さんに遭遇。もっともあわてることなく待避してました。だって1番霊山寺まではそれほど距離はありません。幹線道路を歩いてすぐ。


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霊山寺につきました。ここもいつもどうり淡々と勤行をします。
で、納経所で朱印をもらって「おめでとうございます」といわれて甘茶をいただき、ああほんとに終わっちゃったんだなーと思えた。
境内の向こうのあの門の先は、はじめてくる前とは違うけど、けどどこかいっしょの、変わらない日常のある、楽もあれば苦もある世界です。


門を出るときに一礼するのが礼儀です。そのあと目の前の横断歩道を渡って、再度振り向くと新しいお遍路さんが入ってくところでした。
今生で、もう一度四国をまわる機会があるかどうかわかりません。現時点で出来る限り時間をつくって四国へ来て、いろんなことを見聞きして勉強して考えて、手にしたもの残ったものは少ないけど無形の言葉に言い尽くせぬほど経験をして、自らの引き出しを増やした気がします。それは確かだと思うので最後にもう一礼して駅へと向かいました。


ここまで読んでいただいた皆様。ながながとお付き合いいただきありがとうございました。