西国

夏の終わりから少し忙しくちょっとしんどかったのですが、12月になっていくばくかの余裕ができたので休みをもらって充電というかほっつき歩いてました。事前にほとんど準備できなかったので、出たとこ勝負です。
○遡及日誌一日目
池袋を夜遅く出る西武バスで南紀へ。目指すは熊野です。飯田橋駅そばのビルを通過したのは覚えてるのですがその後の記憶はほとんどなく、目が覚めたら熊野市駅のバス停に止まっててあわてて下車。ちなみに池袋から九時間くらいの距離です。
まず目指すは花の窟神社。日本の神話にはイザナミという神様が出てくるのですが、イザナミがこの地で火の神を産んだもののそのことが原因で亡くなったので、この熊野に葬られます。花の窟神社はイザナミの墓があるといわれてるところ。

御神体七里御浜という海岸線に突き出た巨岩です。
神話の時代から続けられてるらしい祭事(「お綱かけ神事」というらしい)があって、花を添えて毎年二回、そのときに御神体の岩の頂上から境内に綱を張ります。雨が降ってて、フラッシュが雨粒に反射して見難くて恐縮ですが綱の片方は神体の上につながってます。

もう片方はこんなふうに、地面に留めてあるんすよ。で、 これが何を意味するのか、わかるようでわかりません。この地と神をつなぐへその緒なのか。

参拝した後、この七里御浜を西進する予定だったのですが、雨がどんどんひどくなったので、諦め紀勢線を南進。


電車の乗り継ぎで時間が有ったので、新宮という町で途中下車。

新宮も神話とゆかりが深いというか、秦の始皇帝に仕えた徐福が不老不死の霊薬を探し求めてたどりついたのがここである、といういいつたえがあります。ほんとかどうかは判りませんが、江戸時代に紀州藩が関与して建立した徐福の墓なんてのもあります。写真はそのいいつたえに関する公園です。


さらに南進して那智という駅で下車。ここから歩きはじめます。最初に向かったのが補陀洛山寺というところ。地元の熊野交通の人としばらく雑談して、参詣。

補陀落渡海(ふだらくとかい)」とよばれるものの出発点だった寺です。正直、なんとなく想像できないのですが、「補陀落」というのは観音菩薩の住まう浄土のことをいい、かつての日本においては南海の果てにその補陀落浄土はあるという思想がありその南海の彼方の補陀落を目指して修行の一環として生きてる者が船出することを「補陀落渡海」とよんでました。土佐の足摺岬にもにたような話があります。ここでは平安時代から江戸時代まですくなくとも20人ほど実際に渡海してたようです。井上靖の小説に「補陀落渡海記」ってのがあります。興味がある方は探してみてください。

これがその渡海のための船を復元したもの。いくばくかの食料を載せて沖まで曳航され、綱を切られて漂流をはじめるわけっす。観音浄土がほんとにあるのかどうか、判りません。でもって、怖くないのかどうか、正直判りません。でも仏様に仕えてる以上は怖くなかったのかも。ほんとに信仰の中に生きてれば、の話ですが。

雲深い山のほうを目指して歩きます。目指すは7キロ先の西国三十三の一番札所、青岸渡寺です。最初は舗装道路を歩いてたのですが、最後のほうは何百年も続く古道を歩きます。

この日、天気が悪く雨がひどかったので、霧が深く、寺の近くではこんな感じでした。幽玄ととるか、仏様の与えたもうた試練ととるか、判断のわかれるところ。俗に大門坂と呼ばれるところで、ほんとは風情のある階段の道らしいです。

20分ほどずっと階段です。で、山門が見えたー!と思ったら、その山門の先にも階段が見えて、がっくり。

本堂の前に着いたものの、即参詣はできず。しばらく息を整えてからにしました。
青岸渡寺の創始は仁徳天皇の時代です。ほんとにその時代からあったのかは兎も角として、この本堂は豊臣秀吉が建てさせたもの。この青岸渡寺が少し変わってるのは、いや別に、変わってるわけではないのですが、神社に隣接して建ってます。

その神社がこれ、「熊野那智大社」です。熊野の別の山の中にある熊野本宮大社、新宮の熊野速玉大社と共に熊野三山と呼ばれてて、かつては「蟻の熊野詣」として全国から多くの参拝者が来てました。さきほど、補陀落渡海のことを話しましたけど、京都から見ると熊野は南方で観音浄土に近い場所です。たぶんそれも影響してます。で、神仏習合というか、青岸渡寺那智大社と一体のような存在です。巧く説明できる自信がないのですが、神道と仏教が溶け合ってるような場所だったりします。

青岸渡寺の三重塔の向こうには那智の滝。で、この那智の滝御神体です。那智大社の別宮になります。

滝のそばまで行ってしばらくたたずんでました。
霧深いのを、幽玄ととるか、日頃の行いがわるかったととるか、これまた判断のわかれるところ。



ほとんど何も食べてなかったので、寺のそばの食堂で昼食。このあたりの名物の「めはりずし」です。目をみはるほど美味い、ってのが由来です。高菜の葉でご飯を包んだもの。美味しかったけど、600円はちょっと高かったっす。

山から降りてきて那智の浜へ。渡海の船の出たところ。今は海水浴場です。ほんとに海の向こうに浄土はあるんすかね。ここら辺の紀勢線の電車は本数が少なく、時間が有ったので海辺でしばし休憩。山から下りたら完全に雨は止んでました。久しぶりの海なので、誰もいないと思って寄せては返す波に戯れてたのですが、しばらくして振り返るとばっちし若い女性の二人連れがこっちを見てました。なんかはずかしかったり。
この日は串本というところに宿泊。
○遡及日誌二日目
泊まってたのは串本の潮岬の宿でした。

早起きする必要はないのですが早く目が覚めちまい、同宿の人に迷惑かけないように支度して、早起きして一番のバスまでしばし散策。
ここは本州最南端です。地の果てだったりします。岬の果てるほうへゆき、南海に昇る朝陽をみてるとあの向こうに浄土がある、って言われればなんとなくそう思えてくるから不思議です。目の前の海って、三途の川かもしれません。たぶん、岬から飛び込んだらあっちへたぶん楽にいけそうです。およそ浄土っていいところなのかもしれません。三途の川を渡った父なんかは、戻ってきませんし、生前を知ってる幾人かの人を見送りましたけど、やはり誰一人として帰ってきません。行ったら行ったで穏やかにすごせられそうな気がします。ただ、その浄土へ行きたいか、っていったらそうでもないです。ぜんぜん興味もわきません。まず、しんどいなー・難儀やなー、ってなことは生きてるうちにたくさんあるんすが、やんなきゃならない仕事があって、それを片付けてかなきゃ・解決したいってのがあります。長生きしたいとはおもわないけど、不思議なんすがはやく楽したい・穏やかに過ごしたい、とはあまり思ってなかったり。嘆いたり、絶望したり、そんなことをこの先いくつ経験するかわからないんすけど、心底笑ったり幸福を感じたりすることがあるかもしれない、ってことを考えるとひどくこっちに未練があるんすよね。ほんと未練たらたらっす。自殺なんかできそうにありません。生きるとか、死ぬとか、いったいなんなんすかね。正直判りません。でも、たぶん生きるって、未練を捨てないことなんじゃないっすかね。違うかもっすけど。
立ち止まってるとろくなことを考えません。危険思想だ、なんておもいながら、歩きはじめます。

これ、極楽鳥花かなあ。鳥が種を運んできたんでしょうか。未練たらたらで生きてるこっちのほうが、実は極楽だったりして。


バスで串本の中心部へ戻ります。

港のそばに魚市場があったので、魚市場を見学。でもセリはほとんど終わってて、残ってたのはこの魚です。名前を訊いたものの、失念。ちなみにサンマはキロあたり500円です。そんな値段なのか、と驚愕。
このあと御坊という町へ。

御坊、という町によってのは道成寺という寺を見学するためです。

ちなみに道成寺神仏習合の寺です。参拝方法が独特でして、拍手を一回打ってから、一拍置いて二拍手します。阿弥陀如来の前に御幣があったりして、なんとも不思議だったんすが。

実は道成寺縁起絵巻ってのがこの寺に有ってそれをもとに舞踊や歌舞伎等が作られてます。で、どんなところなのか気になってて立ち寄りました。安珍清姫の話っていうと判る人が増えるかな。

念のため書いておくと、福島から熊野へ参詣する美男子だったらしい僧侶がいたんすが、紀伊田辺のあたりである女性に宿を借りました。宿を借りたまではよかったんすが、問題は夜です。その女性が僧侶のところに忍んできて関係を迫りました。でも僧侶は戒律があります。おいそれと戒律を破るわけにはゆきません。そのことを説くのですが納得してもらえないので「熊野の帰りにでも」と約束して紀伊田辺を離れます。女性はその約束を信じて待ってたんすがいつまで経っても当人が現れません。熊野三山から戻ってきた人に三山にいるのかと尋ねると「既にいない」とのこと。騙された、と、怒り心頭の女性は西へ去った僧侶を追いかけます。その姿は狂気に満ち、そのうちに大蛇と変じます。僧侶は大蛇が追ってくると人づてに聞き、正体が宿を借りた女性と悟り、ここ、道成寺に逃げ込みます。道成寺の僧たちは事情を知り鐘の中に僧を隠すことにします。さすがに丈夫な鐘の中ならなんぼなんでも大丈夫だろう、と思ったのです。ところが蛇は鐘を自分の身体で巻き、さらに尾で鐘をがんがん叩き、最後には火を吐きます。しばらくして蛇は涙を流してたぶん紀伊田辺のほうへ消えたものの(入水したという説有り)、鐘は焼けただれ、水をかけてさましてから鐘から僧侶を救出するも「骸骨ばかり残りて、墨の如し」という状態になってました。数日後、道成寺のある僧の夢枕に僧の化身の蛇が現れ「こうなってしまったのは法華経を勉強してたけど修行が浅く救われなかったせいで、できれば私の代わりに法華経を写経して悪縁を断ち切ってもらえまいか」と願います。で、道成寺の僧が法華経の写経を行い供養すると二人とも生まれ変わった、という話です。

ほんとにあった話なのか、正直判りません。でも、恨みってのはもってた人が物理的に消えても、もしくはほんとにあったかどうか判らなくとも、語り継がれてほかの人の中に巣くって生き続けるものなんすよねー。そんなこと、現地で思っちまったのですが。いつ、清姫の情念は消えるんすかね。法華経の力をもってしてもむずかしいのかなー、なんてことを考えてました。
で、安珍清姫の像ってのも安置されてます。ちょっと奇異に感じたのは、安珍のほうはともかく、清姫のほうは袖で口を隠すようにいくらか笑ってたんすよね。最初なんで笑ってるか判らなかったのですが、清姫のほうからすれば本懐を遂げたっていうか、自らの手であやめて自分のものにしちまったわけっす。だから笑ってたのかも。それが理解できたとき、なんだかその執念・情念が怖い、って正直思っちまったんすが。なんで怖いかっていったら、理不尽な話だなー、ってずっと思ってたからです。安珍は結果として嘘をついたんすが、どうすべきだったんすかね。ちょっと答えが出ず。

鐘堂のあと。騙されもしなかったしそこまでの執着がなかったので手を離した相手を殺しこそしなかったんすが、実は清姫と同類で、一歩間違えばああなってたのかなあ、ってなことも考えてました。

いま、道成寺には鐘がありません。なぜか京都にあります。そのかわりって云ったらなんですが、門前町の饅頭屋さんにミニチュアがありました。鳴らす気にはなれず。





普通電車で和歌山へ。

どこかで見たよなー、と思ったら、昔の新快速に似てます。ついで目指したのは紀三井寺

西国三十三の二番目です。つい最近、千手観音立像を開眼したばかりで、金ぴかの仏様がいるのですが、ぜんぜん興味が湧きませんでした。そういや四国でも仏像に興味もてなかったんすよね。西国でも同じかもしれません。

本堂までは231段の階段があります。結縁坂という名前がついてます。紀伊国屋文左衛門が奥さんとであった場所なのでそういう名前がついてます。

境内からはこんな眺め。見えてるところは和歌の浦という名所なんすがこちらもなぜか興味が湧きませんでした。


紀三井寺から先に進みます。和歌山って観光名所はあるはずなんすけど、なんとなく素通りしちまいました。寄ったのは粉河寺。大きな寺です。

現存の本堂は江戸時代中期に普請されてるんすが、屋根が複雑に組み合わさってる不思議な構造です。

ぜんぜん予備知識がないままここまできちまったのですが、ここでこの先どうするか、考えてました。全区間歩くことは最初から諦めてるのですが、ちょっとは歩きたいと思ってて、この粉河というところから次の札所・施福寺までは峠越えしたほうが距離は短いのです。どうせなら歩いて越そうか、ってなことを考えはじめてました。で、近くにいたなんべんも回ってそうな掛軸を持ってる参詣してる人に訊くと、道がないわけではないけれど、迷いやすいらしい。ちなみにその人は朝方に粉河を出て、峠越えをして、和泉市のふもとへ着いたのは夕方だったとか。そもそも四国と違ってそれほど歩いて回る人も居ないようで。丁寧にお礼を言って、どうするか決めあぐねながら寺の外に出ました。寺の外に出て、数百メーター行ったところで今度は自動車が止まります。これから橋本(高野山の入り口)のほうへ帰るのだけど、ニイチャン乗ってかんか?ってなお誘いです。ありがたいなーと思いつつ、丁寧に辞退。峠越えの道を尋ねると、うーん車道でもけっこうあるで、ってなお話でした。考えがまとまるまでとりあえず歩けるところまで歩こうと決め、丁寧にお礼を述べて歩きはじめます。歩くことに意味があるか、っていったら判りません。私の人生、歩きながらの模索ばかりなんすけども。

夕暮れ時の大和街道を西進。
真っ暗になって、名手という町でいったん和歌山に戻りました。
○遡及日誌三日目
一晩寝て、体力にいまいち自信がないせいもあって冒険はしないほうが良いかも、って言う結論を出して、遠回りのルートというか軟弱な選択をしました。南海電車で和歌山から泉大津という町へでて、そこからバスで次の札所のある山の登山口まで行き、朝の光を浴びて施福寺目指して歩きはじめます。

山の中の道を小一時間ほど歩いて、山門に到着。

すると、そこは紅葉のじゅうたんが。見上げても、紅葉。なんだかすげーとこ来ちまったみたいです。

あたりには誰もいません。立ち止まって耳を澄ますとなぜかパチパチという音がしました。

けっこう山深いところ。どれくらい山深いところにあるかっていうと、これくらい。はるか向こうに見えるのが泉佐野あたりです。たぶん。

山門から30分以上たって、本堂へ到着。

ほんと完全に山の中の寺です。粉河から登らなくて正解だったかも。粉河はあの山の向こうです。
勤行した後に茶屋さんをみつけ、そこで朝飯としてじゃがいもと大根のおでん(関東炊)を食べました。で、驚いたのはけっこう麓の人が散歩がてらに登ってきて茶屋に立ち寄るのです。茶屋でコーヒーを飲んだり、般若湯をひっかけて、降りてくのです。お寺は全然特別な場所ではなくて、ここは札所というより生活の場に溶け込んだ社交場みたいなものなのかもしれません。
ここでアドバイスをもらって、河内長野という町に降りることに。

いたるところでこんなふうに山が染まってました。地元の人たちは、これを見せたかったのかなー、と思ったり。
途中で県道にぶつかるから、そこまで行けば南海バスにのってしまえば河内長野へは早いよ、ってなアドバイスを受けてたのですが、県道に出る手前で目の前を南海バスが通過してゆくのが見えました。うわー、と思いながら時刻表を見ると、今度は一時間後です。一時間バスを待ちながら座ってるのも馬鹿らしいので、河内長野方向へ歩いてゆくことに。
歩いてしばらくしたら、お寺がありました。

よくみると、大本山金剛寺、って書いてあります。反対側の看板をみると女人高野とか書いてあります。ちょっとまて、ここはなんだ?ってな具合で首をかしげながら、なにかの仏縁だと思って、参らせてもらおう、ってな具合に入るとさらになんか空気が違います。

本堂と思しき場所で勤行をしたあと(実は金堂という名前であったことをあとで知りました)事務所と思しきところで尋ねて資料をもらって、そこではじめてどういうところだったか、理解できました。天野山金剛寺という名前で高野山が女人禁制だった時期に、ここに女性が高野山の代わりに来てた場所なのです。

「天野行宮」ともいうのですがこの寺は南北朝時代後村上天皇南朝後醍醐天皇の子)の行在所となってます。簡単に言うと、一時的に天皇が居たわけですね。ほんの少しですが、日本の中心部だったわけです。つきあたりが六年ほどいたところ。残念ながら平日は事前予約がないと見学不可でした。

さらに北朝光厳、光明、崇光の三人の天皇上皇がここに幽閉されてました。こちらは見学可能。写真一番奥が玉座です。

庭も見事でした。江戸時代になって阿波・蜂須賀家が資金を出して整備したのだとか。ちなみに見学者は居なかったので、貸切状態です。ですからゆっくり見学。

紅葉が降り積もってます。雪の時期なんかはキレイなんじゃないかなあ、ここ。いつかこれるかなあ。

掃いても掃いてもおっつかない様子。自然ってこうなんすよね。腰掛に座って眺めてたのですが、このときは煩悩のことを思い出してました。絶えることないっていうことからの連想です。実際、絶やせるものなのだろうか、みたいな。紅葉や松をすべてを断ち切って絶やそうと思えば絶やせますが、そんな庭に、生の無い庭に、なんの意味があるんすかね。無にも意味があるんでしょうか。ありそうな気がしますが、無だから、ないかもしれません。そもそも「無」って判るようで判ってません。
ずっと学生時代から抱えてる疑問があって「無と書いた掛軸をかけてもなにもなくならないが死と書いた掛軸ではすべてがなくなる」っていう言葉の意味です。井上靖の本覚坊遺文の中にあるのですが、ほんとに死んだらなにも残らないのか。そんなことないはずなのです。死してもなお、残るものもあります。死ってなんなんでしょう。死んだらなにも残らない?ってなことはないっす。清姫の怨念が残ってる場所を見てきたばかりです。そもそも蜂須賀さんの趣味もこうして残ってるわけで。
庭を見て思考が(腹減ってたせいもあって)謎発展しちまったんすが、浅い思慮しかない脳で見てもけっこう考えさせられる庭でした。

寺の中を流れる川にも紅葉が堆積。

勉強不足もいいところなんすが、河内の山の中にこんな史跡が有るとは知りませんでした。バスを逃したおかげで見学できたわけで、ほんと嬉しい誤算です。ひょっとしたら仏様の導きなのかもしれません。


このあと河内長野を経て大阪へ。用を済ませて夜遅く神戸入り。
宿に入る前にルミナリエ見学。

神戸は知らない町ではないのですが、なんだか知らない町のようでした。

月並みな言葉ですが、きれいだったです。
○遡及日誌四日目
この日は安くはないホテルに泊まってて、寝坊するつもりだったのですが、朝早く目が覚めちまい、シャワーをあびてはやめに出発。鉄人28号のロボットがある公園も気にはなってたものの、積年の念願を叶えるべく、須磨浦へ。

須磨ははじめて。いつも通過するだけでいつかおりてやるぞ、って何年も思ってた場所です。向こうに見えるのが、淡路島っす。誰も居ないことを確認して、テトラポットの上へ登ったりしてました。

須磨浦公園駅で降りたのですが、ホームの脇はもう、山で、あとはこんな感じの松林と砂浜しかありません。事前に調べたわけじゃないのでここら辺が一の谷のあとなのかとかはわかりません。垂水と違って埋め立てもしてないし、たぶん平安時代とさして変わってないんじゃないかなあ、と想像。でもって光源氏はこんなところに居たんかなあ、ってなことを考えてたんすが。
しばらくぼーっとしてから、今度は京都へ。


わけあって烏丸今出川のそばの近くに来たので、

ついふらふらと、京都御所へ。

もう何回もきてるところなのですが、なぜか飽きないんすよ。言葉にできない土地の魔力ってあるとおもうのですが、特にそれを感じるところです。ここらへん。

たらふく紅葉を鑑賞しました。


この日は成道会(臘八会)でした。お釈迦様が成道された(悟りをひらかれた)ことにちなむ法要がいろんな寺であります。で、千本釈迦堂では大根を加持祈祷した後、輪切りにして大鍋で煮込んで参詣者へ大根をふるまいます。

それを教えてもらってたので、千本釈迦堂へ。ただし、すごい並んでました。

大根が4つにおあげさんです。たぶんうすくち醤油ベース。美味かったです。


いつもは時間に縛られるのですが、休みのときはなにをしなきゃいけない、ってのはありません。今回はほんと時計を見ずにあちこち、糸の切れた凧にようにあちこちふらふらまわってました。気ままに歩いて最後に足を止めたのが吉例顔見世興行中の南座前。

やはり、師走です。
いろんなものをみて、頭の中をリフレッシュさせることができました。見たものが何の役にたつかは判りません。なんの役にも立たないでしょう。でも、そんな捨て石的なことほど、ひどく魅力的っす。

休暇気分を切り替えて、このあと東京に戻りました。