行くぜ東北(ちょっとだけ)

花巻へ行ってました

東北はあまり知りません。大学時代に弘前大学へ用があって行った程度で、それも観光もほとんどしませんでした。勤務先では西へ行くことは多くても東北は管轄外なので未知の世界です。未知の世界でも花巻は宮澤賢治の居たところ、という程度のことはさすがに知ってて、そこへ行くことに。用があって東京にいた上を通過する人は岩手になんべんか行ってて平泉も面白いよーとはいわれてたんすが。

山の中にある宮沢賢治記念館です。愛用のチェロとか自作童話のために描いた絵などがあります(「月夜のでんしんばしら」の絵が印象に残った)。私は非文学部生なので宮澤賢治というと文学者としてのイメージが強いですが、ここでは見事にそれが覆りました。彼が肌身離さずもっていたのは化学の基本書と法華経の本です。特に法華経宮沢賢治を語るうえでかなり重要なファクターかもしれなくて、いったん国柱会という教団に属し家族を日蓮宗に改宗させます。死の直前には法華経の教えを書いたものを千部刷り死後配布することを頼みます。そこらへん考えるとあまりにも有名な「雨ニモマケズ」の詩の「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ」とか、銀河鉄道の夜でジョバンニが「ほんとうに、みんなの幸いのためならば、ぼくのからだなんかひゃっぺんやいてもかまわない」って言うんだけど、亡己利他という己を忘れて他を利する仏教的なものにかなり近い・信仰告白に近いものに理解できます。でもって宮澤賢治のおっかなさというのは、他人にコミットする姿勢・対象に入り込む迫力なんじゃないかとおもってるのですが、展示物をみていてそれがどこから来るものなのか、なんとなく腑に落ちました。年表を追ってると、旱天の時には稲作の相談で奔走し、酸性の農地改良のための岩手産石灰石の販売に尽力してます。根っこに仏教があり、言葉も行動もおそらくかなり影響をうけてたのがよくわかりました。
正直書くと花巻に来るまで、宮澤賢治はへんな人に思えてました。なんだろ、文章を読んでると変なところにこっちが連れてかれる感覚なのです。言葉の凄味や怖さを知り尽くしてるか、もしくは、本気でそう思っててそうあらねばならないという狂気のようなものをもってるか、どっちかかなあ、と踏んでたのですが、おそらく後者で、その彼のいくつもの言葉が迫力があるのは背後にあるものが緊密な連携をもって出てきちまってるからかもしれません。
また高等農林学校時代に地質学を研究してたせいもあり地質系にかなり造詣が深く、著作に出てくる鉱石類がすべて集められていました。集められていましたって書きましたがけっこうな数で(そこまで深く読み込んでなかったことがバレバレですが)ちょっとびっくりしました。

記念館のそばにあるのが「山猫軒」です。ですから

「どなたでもどうかお入りくださいけっして遠慮はいりません」

「注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい」

塩とクリーム、香水も用意してあります。いいなあ、こういうシャレ。念のため、食べられてはきませんでした。そのかわり青りんごのジュースとりんごのケーキを食べてきました。
一見どってないことの文字・言葉の羅列の後ろにとんでもない意味と結末が控えてるあの物語は、文字を注意深く読まねばならないとああなるよ・言葉ってのは怖いよ、という警告にも思えてくるんすが、それは言葉と格闘してたらそう警告したくなったんだろうな、と思うのですが、考えすぎかもしれません。つか、人間の思考において、ことばにしてるのはたぶん限られてて、そのうちの一部しか出てない言葉や文字にとらわれるととんでもない方向に行きかねない・とんでもないことになるのではないか・身動きがとりにくくなるのではないかとうすうす感じてて、脳内で勝手に「注文の多い料理店」と結びついて、謎発展してるだけかもなんすが。
記念館のあとは羅須地人協会へ。

花巻農業高校の教諭を退職後、独居自炊しながら昼は農作業、夜は私塾をひらいて農業技術や数学などを教えていたところです。ただ残念ながら長続きはしませんでした。

現在は花巻農業高校の敷地内で保存されてます。
【マルカン百貨店】
花巻市内にはマルカン百貨店というのがあります。

百貨店といっても横浜イセザキ町のユニーや本八幡の長崎屋というか、実用衣料中心の大型店です
そこで昼食をとりながら噂に名高いソフトクリームを。

こ、こんなおっきいの入らないよぉ///と一瞬思ったけど完食しました。

以上、いつものように弾丸旅行ですが骨休めしてきました。月曜は案の定、へろへろだったけど、後悔はしてなかったりします。