平泉から松島へ

週末に東京を飛び出してました。
中尊寺
岩手に平泉というところがあって

その平泉の中尊寺へ。尾根の上にいくつものお堂があります。教科書どうりのことをかけば奥州藤原氏が積極的に関与し、いまでも天台宗の東北での拠点の一つとなっててます。

中尊寺には金色堂という金箔をふんだんに使ったお堂があります。もちろんいまは覆堂の中にあります。有料ゾーンにあって、さらに金にも仏像にも興味がないので本堂に参詣したら別にどうでもいいやーと思ってて、でも「ここまで来たからには」ということで同行者に軽く誘導されて(わたしはわりと流されやすい)入りました。
で、内部の柱などに漆塗りに夜光貝螺鈿細工が施されてて、それほど明るくない環境の中で眺めてると理解できてくることがあって、ずっといると金と漆と螺鈿細工と阿弥陀如来ほか仏像にしか目がいかず、ほかのことは考えなくなります。帰依する心があるかどうかを問わずにここにくれば見ているこちらと仏様以外の関係がいつの間にかシャットアウトされるわけです。正直に書くと意図がわかってちょっと動けなくなったというか、百聞は一見に如かず、といいますが、なんだか唸っちまったり。

とても興味深い体験をしました。
【高館義経堂】
中尊寺からそれほど遠くない丘の上にあるのが義経堂です。

義経の終焉の地ともいわれるところです。義経って考えてみると奇襲でもって敵を破るけっこうむちゃくちゃな人で、おそらく腹芸ができなくて不器用さがあるように思えてならず、私のような浅薄な人間の琴線に触れる不思議な人物なのですがって能書きはともかく

川向こうの山は変わってないはずなので義経が最後に見た景色はこんななのかな、くらいのことは想像できます。想像したって何の足しにもならないのは承知です。芭蕉はこの地で「夏草や強兵どもがゆめのあと」という句を残しています。ずいぶん評論家的な上から目線の句だよなあって思っていたのですが、この場所で睥睨するように眺めてたら納得がゆきます。さらになんで夏草なんだろう、って気になっていたのですが、川のそばならわからないでもないです。やはり百聞は一見に如かずだったり。

景色を観て気になったのが北上川です。堆積物があるということは平泉は上流から土砂が流れておそらく肥沃な土地であったのかなあ、と。と同時にもしかしたら幾度となく洪水の被害にあった場所なのかも。

義経堂の南には柳之御所遺跡とよばれる奥州藤原氏の本拠地であったと思われる場所があります。池の向こうのこんもりした山が義経堂のある丘です。柳之御所北上川のそばにあって、中国産の陶磁器などが出土していて螺鈿細工の夜光貝といい、経済力は相当あったのかもしれなかったり。
毛越寺
よくよく考えると浄土というところはおそらく誰も行ったことがないはずの場所なんすけど、その浄土というのを想像して作られた庭園があるのが毛越寺というところです。わたしも浄土っていったことがありませんが、こういうところだったらいいかな、と思える場所です。もうちょっといえば死んだ父や母がこういうところに行ってるのならばそれほど心配しなくていいのだな、とおもえたというかっててめえの感想はともかく。

まじめなことを書くと平安時代につくられた庭園がそのまま残ってて昔の人が何を考えていたかわかる貴重なところでもあります。

とても小さな船に乗った杯が流れてくるまでに歌を詠まなければならないという無粋で野蛮な東男には理解しがたい曲水の宴につかわれた水路もあって、ああほんとにそんなのもがあったのか、と興味深かったです。
陸中松川
平泉から隣町へ移動して陸中松川というところへ。

石灰を生産していた東北砕石という会社が以前あって、いまは一関市の資料館になっています。盛岡高等農林で地質を研究していた宮沢賢治に東北砕石は技師就任を依頼し、対して宮沢賢治岩手県に多い酸性土壌の改良のために石灰の販売は農民のためになると考えていたのでそれを快諾し(契約書が展示されてます)、技師として陸中松川を複数回訪れながら自ら石灰推奨チラシを作成し(そのチラシも展示されています)、花巻を拠点として岩手をはじめとする東北各地へ石灰を売り込みます。しかし東北砕石の製品を売り歩くために出張しているときに病を得てしまい、でもって病を得てから「雨ニモマケズ」の文章が書かれてているのですが、その手帳も展示されていました(丈夫ナカラダヲモチは痛切な叫びというか見果てぬ夢になってしまったわけですが)。また書簡類もあり、宣伝資料調査費として東北砕石から5円もらったけどそんな筋合いはないので別の項目で処理した、っていうのがあって融通の利かない一面も垣間見えて興味深かったです。
宮沢賢治とは関係ありませんが岩手県下の鉱山についての地図が資料館内にあってつい見入っちまってたのですが、石灰に限らず金山などもかつてはけっこうあったようで、金色堂の金はたぶん岩手産であったのかなあ、と。

採掘場も見学してきました。石灰岩は硬いので、あれだけの地震でも全く影響はなかったそうで。地震ついでの説明で(陸中松川にはまだ工場があって地震以降の変化としては)津波を被った土地(≒酸性化してしまった土地)の中和であるとか、pH値が低くなると地中のセシウムが植物に吸収されやすくなるということからpH値を調整するために岩手県中の牧草地に対して石灰を3万トン撒くため出荷してて
「賢治先生がおもいもつかないような使い道ができてしまって。はははは」
って資料館の人は笑ってたものの、笑っていいところだかわからず。
この日は一ノ関に宿泊。とてもいい音響のジャズ喫茶があって、ちょっとびっくり。
【松島】
翌日は松島へ。

運良く晴れていたので、よくいえば風光明媚で、悪くいえばずっとみてると美しい絵を眺めてるようで退屈してきてそのうち眠くなってきます。これが雪の日とか嵐の日であるともしかしたら全然違う印象を持つのかも。

松島っていうだけあって、マツ(おそらくアカマツ)が多いのと、脆い地質で波に削られやすいのか抉られてる島がけっこうあったり。おそらく百年前と百年後とではぜんぜん異なる景色になってるのかも。

松島から塩釜へ抜ける遊覧航路があって乗船しました。途中まで船内は自動放送による案内であったのですが、震災後からは以前と様相が違ってきてしまったところがあるので肉声による案内になっていました。
でもって塩釜に近い七ヶ浜沖を航行中のことなんすが
津波のときにみんな避難したのですが、でも六十数人の死者を出してしまった。なぜだかわかりますか」
という問いかけのあと宮城の言葉で
津波が来て、波がひいた後に、ああ血圧の薬を持たないできちゃったよとかあれ赤ちゃんのおんぶひもがないねって気がついて、いったんとりにもどったのです。そこに第二波第三波第四波がきてしまった。テレビとか新聞では津波が来たら逃げろ逃げろっていってるけどそれしかいわない。第二波第三波第四波のことまではいわない。津波は何度も来るのです。それを忘れないでください」
っていう忠告がありました。東京では絶対知りえないことで、もしかしたら重要なことかもしれないのでここに転記したのですけど、なんだろ、妙に説得力がありました。

島の中で穴が四つあってもしそれがすべて見通せるとラッキーというところもあったのですが、三つまで。ちょっと残念。
【塩釜】
塩釜では浦霞という銘酒があってそこの醸造元を尋ねたのですが

お休みで、残念。仙台で購入して帰京しました。
週末2日間駆け足でしたが、リフレッシュしてきました。