修学院離宮へ

油照りの東京から酷暑の京都へ土日2日行ってて

土曜の夕方に祇園祭の後祭の宵々々山を見学してました。写真は南観音山です

祇園祭山鉾巡行はいま前祭(さきまつり)および後祭(あとまつり)にわけて行われるようになってます。後祭に参加する鉾は多くはありませんが、ちまきを売るときの「つねに出ません今晩限りご信心のおんかた様はうけておかえりなされましょロウソク一丁献じられましょロウソク一丁どうですか」とかの歌は一緒です。というかロウソク一丁の歌声を聴くと数回しか来てないのに、なんかこう、祇園祭なのだなあ、という気分になりますっててめえの感慨はともかく。

新町通四条通の南側に大船鉾というのがあります。平成26年に復活した鉾です。住吉さんが祀ってあるので、ああ船関係がこのあたり多かったのかなあ、などと町会所ですっごく浅はかな質問をしたのですが、ほんとは神功皇后朝鮮出兵の成功の説話に由来するもので、大船鉾とは云わずにもともとは凱旋船鉾という名前だったそうで、全斗煥大統領の時代に日韓関係を考えてまずいということになって大船鉾に変えたのだとか。ダメ押しのように「今はやりの忖度ですな」と付け加えてくだすったけど、笑っていいところかどうかはわからず

たしかに「凱」の字のTシャツを着てる人がいたので許可を得て撮らせてもらったんすけど、消えちゃう歴史かもしれないので、念のため書いておきます。問わず語りで教えて貰ったことがいくつかあるのですが、蛤御門の変で焼失したあと復活までに時間がかかったのは鉾復活のためにためておいたお金を小学校設置に転用したゆえのことなのだとか。ついでに書いておくと蛤御門の変以降、いくつかの鉾は車輪が共通設計になっていて、万一焼けても先祭で使ったあとに後祭でつかえるよう融通できるようにしてあるそうで。車輪は日向の赤樫(あかがし)でできてて(頑丈で燃えにくいんすけど)、しかし手に入りにくいらしかったり。

旅に行っても個人的に自分用の土産物ってほとんど買いませんが役行者山の手ぬぐいを買いました。以前来た時も手ぬぐいは購入していたのですが人にあげたりしてたので手許に無く、役行者山は身体健全に関係してくるっぽいので衝動的にお守り代わりに購入しました。上を通過する人に見せびらかしたら「八坂神社でお守り買えばいいのでは」と云われて、ああそれもそうだなーと思って「要る?」と訊いたら(押し付けようとしたらさすがに)「持っとけば?」と間接的に断られちまったのでまだ手許にあります。

暑かったんすが、時間を忘れてふらふらと歩きまわってました

翌日は修学院離宮へ。江戸時代に御水尾上皇がそこにあったお寺(円照寺)を移してまで作った広大な離宮です。どう説明すればいいのか困るのですけど東山の山裾の棚田のなかに道でつながってる下離宮、中離宮、上離宮という茶屋が三つあり、

それぞれに建物と庭があります。写真は下離宮の庭なんすがいまは緑一色なんすけどおそらく紅葉の時期にはきれいなんだろうなあ、と。

離宮は林丘寺という寺だった時期があり若干雰囲気が異なります。

度肝を抜かれるというか良い意味でおもいっきりクレージーなのがいちばん上にある上離宮です。谷川をせき止めて池を作ってあります。作ってあるのですが池を構成する石垣の上に常緑樹を植林してあるのでそこに池があるというのはわからない作りになっています。施工がかなりしっかりしてるのでいまでも崩壊の危険性はないのだとか。

屋形船を浮かべて舟遊びをするために水深は転覆しても溺れない程度の50センチほど。舟遊びのためだけに作った池です。

岸の向こうに木立があり、その木立と空が水面に映り、木立の向こうに京都の街と西山が遠慮がちにちらっちらっとのぞめます。絵画的な光景なんすけど、非実用的な池です。後水尾天皇が何を考えてたのかわかりませんが美というか遊びのためだけにこれだけのものを作ったのかと思うと、世が世なら不敬罪になりそうなのですがつい笑ってしまうというか、ちょっと尊敬してしまうレベルです。宿を洛北のほうにとってて修学院を強く推してたのが上を通過する人で、口には出さなかったのですがなんでこのくそ暑い(37度くらいの)中でに山を登らなければならないんだよと内心思ってて、しかしこの池を眺めてたら来てよかったと思えるようになりました。

なお窮邃亭という名の、御水尾上皇時代の建物が残っています。

後水尾天皇は棚田の中に離宮を作ってて、その意図を守るために棚田は所有は宮内庁ですが稲作は京都市内の農家の方に委託してるそうです。正直、このクレージー離宮をずっと残しておいて欲しいと思いました。

修学院から叡電出町柳へ。橋があるからそっち渡ればいいのにお約束というか鴨川デルタも渡ってきました。
強烈な暑さの中の外出は狂気の沙汰だったかもしれないものの、バテながらもリフレッシュして帰京しました。