宵々々山へ

【遡及日誌第一日目】
祇園祭へ行ってきました。といっても宵山山鉾巡行は平日で日程的に厳しいので宵々々山の日(日曜日)に見学しに行ったのみです。

以前説明したことを繰り返しますと祇園祭りの山鉾群を大きくふたつに分けると(ほんとは二つに分けることが難しいのですが)山車状のものの屋根の上に鉾が載ってるものは(見難くて恐縮ですが月鉾という鉾の上に月のかたちをした鉾が載ってます)鉾といい(また写真はないのですが人が持てるサイズの傘の上に鉾が載ってる傘鉾というのがあります)

鉾の代わりに松が載ってるのが山といいます(写真は北観音山)。大規模な山は曳き山とよばれたりします。
[保昌山・伯牙山・蟷螂山]

比較的規模が小さく、少人数で舁きながらいくものを舁山といいます。松がありますから山です。各山や各鉾は町会所がありそこでそのまちの人が保存・組み立て・運営を行います。写真は保昌山という舁山で、御神体はまだ乗ってません(巡行の日に載せる)。後ろの建物が町会所で、その二階にあるのが御神体の平井保昌です。正確に書くと「和泉式部のために盗んだ・手折った梅の花をもつ保昌」が御神体です。過去にそういった故事があり、でも「なぜそれが御神体なのか?」というと答えに詰まります。ただいま考えると恋をして肯定してくれる人がいると思うと人は案外タフになったりしますから好きになった人のためには人は強くなるということが神がかりっぽいとかならわからんでもないような。
故事にまつわるところでは伯牙山という舁山も見学しました。

琴の名手「伯牙」という人が御神体なのですが、「友人の死の悲しみのあまり琴を割ろうとする伯牙」です。それがなぜ御神体なのか、というとわかりません。ただ強い悲しみというのも邪念を寄せつけずにいつもより人を強くするのかもしれません。ちなみに前に供えてあるのはちまきです。有名かもですが、祇園祭ちまきは中にお菓子が入っていません。ちまきのほか、なぜかトビウオも供えてありました。

町会所のなかでは祇園祭宵山まで山や鉾に飾る懸装品等を見学できます。
さらっと町会所と書いたのですが、伯牙山の場合はもとは呉服商だったところが町会所です。杉本家住宅という名前で有名で、京都の仕入品を千葉で商うスタイルで成長しいまの千葉三越の基礎を作った家です。いまは財団の持ち物ですが、あーここだったのか、と妙な感慨を覚えました。京都の商家の面影を残してて、なおかつ懸装品はわりと江戸時代のものがあったりするので、江戸がそのまま残ってる印象があります。

蟷螂山です。この子は巡行(念のため書いておくと巡行というのは山鉾群が町内を移動する日です)のときは動くのですが、この日は動いていませんでした。考えたらこの蟷螂に逢うのも3回目になります。これも蟷螂の斧という蟷螂が前脚をあげて大きな車に向かった、という故事に由来します。おのれの力量もかえりみず強敵に向かう(ある種の無茶な)勇敢さ、というのが好きだったり。
長刀鉾・鶏鉾]
長刀鉾というのですが、山車の上に長い長刀が載ってるので長刀鉾です。刃先が八坂神社と御所を向かないように南向きにしてあります。で、疫病邪悪を払う長刀といわれてて、山鉾巡行の日には先頭を行きます。長刀の下の緑のもじゃもじゃは榊です

長刀鉾は手ぬぐいやちまき等を購入すると搭乗することができます。ただし女人禁制です。余談ですが長刀鉾に限らず独自の手ぬぐいが販売されてて、図柄がかなりのレベルなので唸らされます。

町会所の二階がちょうど山車の上の高さです。つか、突然土砂降りの雨になりました。

内部には口の字状に中国式に二十八宿の星座が描かれてます。この分類は明治期まで続いてましていまでも昴ってきくと思いますが、右側のW字状のものがそれです。左は判らず。でもって天水引幕の柄がきれいでした。

おそらく復元したものではあると思いますが、色づかいといい紋様がじーっと眺めたくなるようなものでした。古びてないというか。なんべんも書きますが古人の秀作を目の当たりにすると、歴史があるということは過去を参照できるけども、なにかを作り出すときは逆に常に過去といまを比較されることでもあって、そこでどうするかってのは実は大変なのかもとおもわされます。京都の底力ってのはもしかしたらそこらへんに秘密があるのかもしれません。

町会所にある長刀。山車の上のはイミテーションと思われます(万一のときを考えると確かに怖い)。

長刀鉾にのるお稚児さん(唯一生きた稚児が乗る)の衣装も展示されてました。
突然の雨でもあったので、雨宿りを兼ねてちょっと長めに見学。

鶏鉾という別の鉾で内部を覗くことができたので一枚。釘類を一切使わず、部材の組み合わせと縄だけでなんとかします。こういった先人の知恵を見せつけられるといつみてもすげーな、と思っちまうのですが。
[屏風祭]
山や鉾のあるあたりというのは和装関係の法人・商家がけっこうあります。祇園祭の時期にあわせてその和装関係の商家は秘蔵・秘蔵でないものを含め屏風や美術品、調度品などを飾るふしぎな風習があります。

記憶に間違えなければ青木という綾小路通の大きくはない店先に置かれてた鉾のミニチュアと屏風等。

新町通の藤井絞というけっこう奥まで見渡せる大きな店の屏風等

室町通の誉田屋という帯問屋のタペストリー。この時期、女性はもちろん男性でも比較的和装の人が増えてる印象があります。その状況下で屏風祭をみていると和装でもよかったかも、と言われたのですが、ゆかたはもちろん和装をひとっつも持ってないので、無理な相談だったりします。
祇園甲部歌舞練場]
祇園甲部の歌舞練場の一部と庭園が期間限定で公開中で(都おどりの入場券を買えば毎年入れるらしいのですが、縁がないので)入ってきました。写真は撮っていいのかわからなかったので、ありません。都おどりの資料公開があって(つか、毎年作り変えてるのをはじめて知った)興味深かったのは謡曲吉井勇作詞・谷崎潤一郎狂言の作品なんてのがあることです。縁がない世界ですが、けっこう遊び方にはんぱがない世界なのだな、と思い知らされました。
で、床の間に色紙がかかってて、それが誰かの短歌なのだけど、毛筆がよくわからないのでたどたどしく小声をだしながらそれを眺めてたら、それをきいてた見知らぬおばさまが「吉井勇歌人)の作じゃないか」っていってらっしゃいました。さらっとでてくる京都はこわいっす(ただしそのおばさまも自信は無さげだった)。
【遡及日誌第二日目】
翌朝は姫路へ。

みなさまの足、阪神電車がいま姫路まで直通してます。つか、昔の阪神電車と比べてちょっとカッコよくなったかも。
[姫路城]
現在姫路城は大天守が改修工事中です。工事中の現場を見学してきました。

素屋根で大天守を覆ってその中で工事をしています。素屋根の中に荷物運搬エレベータと、仮設の見学室と、見学室用エレベータがあります。

天守の横の石垣の上あたりまでの高さの大がかりな鉄骨の構台を作り、この上にクレーンを置き、天守を素屋根を覆う工事をしたのですが、すごい光景です。これをみて素人考えで基礎をどうしたのかなあと訊いたら杭はさすがに打てなかったので(相手は国宝・世界遺産です)シートを敷きその上にコンクリの塊を基礎として置き、鉄骨を組んであるそうで。地震はダイジョウブなのかなと不安になったのですがそこは自重でなんとかなるのかも。でも地震がないことを祈りたいところ。

素屋根の中の8階見学室からの大天守の上部の眺め。次の修理がいつになるかはわかりませんが、何年生きられるかわからないけどもうそばで観られることはないかなあ、と。

7階からは漆喰の作業を見学。漆喰については防火の意味を含めて海苔と砂を混ぜたいわゆる南蛮漆喰である旨説明板にあったのですが、防火を考えると素屋根の鉄骨も溶接ではなくておそらくボルト締めなのかもしれません。つか、おそらく素屋根の解体工事も神経つかう作業かも。

播州姫路にも播州皿屋敷という皿を数える系の怪談ものがあり、その怪談にまつわる井戸が姫路城にはあります。ちなみに私の母校の図書館は皿屋敷の跡地といわれてて、そのせいか夏に図書館でレポートを書くと枚数が一枚足らなくなるってのをきいたことがありますが(提出日直前だったらちょっと怖い)そんなことはともかく。

なお大天守の工事現場見学(天空の白鷺)は予約制でいちおう予約して行ったのですが、予約なしでもなんとかなりそうでした。
[明石海峡大橋]
実はあんまり天気に恵まれなかったので、予定を変更して舞子へ。なにがどのように良いかということに関して言語化がどちらかというと不自由な私の場合、そこへ行ってココだよと誰かに教えたくなる場所ってのが私にはいくつかあるのですが、そのうちのひとつが舞子であったりします。

向こうは淡路島です。

アンカレイジのなかにエレベータがあり、高さ47メートルの橋の下の遊歩道を歩くことができます。シースルーの場所では下の海が見えるので、ついじーっと観ちまいます。

海に限らず、ここからの眺めはいつみても飽きません。

梅田へ向かう阪神電車の車内に日の丸が掲げてあったのですが、とっさに何の日であったか思い出せませんでした。なんの日かは思い出せなかったものの、休日をじゅうぶん堪能して帰京しました。