幕見席から眺めていた役者の悲しい報道に接してその5(もしくは「視野が狭い」について)

何度か書いていることなのですが「命より大事なものがありますか?」といったとき、この国ではある程度の確率で「命より大事なものは無い」という返答が返ってくると思われます。自殺そのものを罪とする条文はないものの「命より大事なものは無い」という発想が無ければでてこない「命の放棄は好ましくない」という考え方があって、なので自殺を助長する行為は禁圧すべきものと考えられ、ゆえに自殺幇助などは罪に問われます。

しかし人間というのは工業製品ではありませんから誰もが常に「命より大事なものは無い」と考えるかというとそうは限りません。

意中の人が居るにもかかわらず勝手に進められその縁談を断り結納金を戻そうとしたものの戻せずもはや死ぬしかないと思い詰める「曾根崎心中」というのが歌舞伎にありますが、この作品「命より大事なものは無い」という考えがあったら成立しません。でも繰り返し上演され続けています。信用を含め容易に人は「命より大事なもの」が出来てしまうことがあるゆえに、いざというときにどっちが大事か?といわれたら命が二の次になる選択することにどこか説得力があるはずで、おそらくそこらへんから支持され続けてるのではないかと思われます。

いつものように話は横に素っ飛びます。

幕見席から眺めていた役者の裁判の判決の記事を追っていて、判決の中で被告の「視野が狭くなっていた」という指摘がありました。命より大事なものが守れぬと考えての自死への行動を指すと思われるのですが、「命より大事なもの」は法律上ありませんからそれは「視野が狭い」と指摘されると確かにその通りなのです。「命より大事なもの」が出来て「命より大事なもの」を失うのが怖かったのかな、なら理解できるかも、などと人力詮索をしていた私も視野が狭かったのだな、と。

それほど歌舞伎をたくさん見ているわけでは無いのですがフィクションに引きずられていたようで。おそらくこれらは贔屓目で、匿名を奇貨として書くと、やはり相変わらず冷静になれてなかったりします。冷静になれてないついでに書くと、新聞を読む限り関係者が更生の支援をし、かつ松竹が「進むべき道を共にを模索したい」という表明をしてるのが明るい材料で、仮にいつの日か興行があったらとても巧い役者だと思うのでもう一度唸らされに観に行きたい感はあったりします。

冷静になってない文章ほど理屈がなく読みにくいものは無いと思うので、このへんで。