幕見席から眺めてた役者の悲しい報道に接してその3

これを書いているのはもういい歳をしたおっさんで、業務に関することで人を教えた経験が無いわけではありません。ずいぶん前に勤務先の先輩から酒の席で「あんな、云われたことを全て記憶する人なんて居らんのや」というのと「きみが理解できたことが目の前のやつが全部理解出来るとは限らんのやで」という愚痴ともアドバイスともともつかぬことをそれとなく教えられたことがあります。ただそれがひどく気になっていて、教えたり指導する役割がたまにまわってくると「用件を簡潔に」とか「同じ質問でも怒らない」とかそこらへんをずっと意識していました。幸いなことに声を荒げたことはありませんが、教えるというのは教える側の器を試されるよなあ、と途中から気が付いています。

話はいつものように横に素っ飛びます。

歌舞伎役者を追ったドキュメンタリーを以前視聴していたとき坂東玉三郎丈が市川中車丈と中村七之助丈に稽古をつけているところが流れていました。そこでの玉三郎丈の指摘の口調は厳しめかつ簡潔で細かく、しかし、七之助丈曰く勘三郎丈は出来ることが前提でちょっとでも欠けると「なんでできないの」という詰問調であったものの玉三郎丈はそうではなくどうすればよいかを的確に伝えるものであって有難かったと述べていて、そこらへんが印象的でした。玉三郎丈の教え方は間違いの許容を前提にしたシステムで引っかかった点を訂正してゆくことになるわけですが、教わる側にとってはありがたいシステムでも(常に目を光らせておかねばならぬわけで根気を必要として)負担が大きいはずで、畑は違えど唸らされています。おれにはできねえ…というか、そもそも役者ではありませんが。

眺めてた役者の悲しい報道で目にしてしまった記事の中にその役者が高圧的というのがありました。人は工業製品ではありませんからなにかを教えたり指導する際に厳しくなったりすることはあり得て、それが高圧的と取られちまうかもなあ…などとそのときはいわゆる人力詮索さてはが捗っています。もちろん真実は知りません。

昨夜の9時の報道で保釈された歌舞伎役者の姿を見て「おお、生きててよかった」というたぶん頓珍漢な感想がでて、年が近いのと読んだゴシップのせいもあって思考がとっ散らかってて「大変だよなあ」などととうっすら同情っぽいことを考えていました。これ、おそらく文字通り贔屓目のはずで、匿名を奇貨として書くのですが、時間が経っても相変わらず冷静になれていなかったり。

冷静になってない文章ほど理屈が無く読みにくいものはないはずなのでこのへんで。