幕見席から眺めてた役者の悲しい報道に接してその2

俗に四の切と呼ばれる演目があります。その四の切の中で初音の鼓というものが出てきてその鼓には狐が使われていて、(是非詳細は歌舞伎座等で御観覧いただきたいのですが)物語の中では鼓に使われた狐の子が重要な役割を果たし、結果として初音の鼓は狐の子に与えられます。当代の猿之助丈がその狐の子を演じたとき、鼓を与えられてもいったん様子を伺う仕草があり、そのあとで親と会うことが出来た喜びを身体じゅうで表現していました。様子をうかがう仕草は狐は疑り深いという解釈で、それが澤瀉屋の伝統なのか猿之助丈の独自の解釈なのか不勉強ゆえに知らぬものの、その動作は結果的に絶妙な間を作ることにもなってドシロウトにもわかる程度に深みが増したのは確かで、唸らされています。

話はいつものように横に素っ飛びます。

「命より大事なものがありますか?」といったとき、この国ではある程度の確率で「命より大事なものは無い」という返答が返ってくると思われます。実際、この国では自殺そのものは罪ではないものの「命より大事なものは無い」という発想が無ければでてこない「命の放棄は好ましくない」という考え方があるので自殺を助長する行為は禁圧すべきものと考えられ、なので自殺幇助などは罪に問われます。

ところが人間というのは工業製品ではありませんから誰もが「命より大事なものは無い」と考えるかというとそうは限りません。

意中の人が居るにもかかわらず勝手に進められその縁談を断り結納金を戻そうとしたものの戻せずもはや死ぬしかないと思い詰める「曾根崎心中」というのが歌舞伎にありますが、そこには「命より大事なものは無い」という発想はありません。でも繰り返し上演され続けています。色恋や信用を含め容易に人は「命より大事なもの」が出来てしまうことがあるゆえに、いざというときにどっちが大事か?といわれたら命が二の次になる選択することにどこか説得力があるゆえに、支持され続けてるのではないかと思われます。

もちろんフィクションでなくても、その人にとって「命より大事なもの」を失ってしまいそうになったとき、たとえばこの先を悲観してとか知られたくない事実が知られてしまった時などに、命が二の次になることも不思議ではないです。そういうときに悲劇が起きてしまうことは容易に想像できます。

横に素っ飛んだ話を元に戻します。

後援会に入っているわけでは無いものの当代の猿之助丈は気になる役者で、その舞台を機会があれば眺めていて、故に報道を追うのがちょっとしんどいのでそれほど詳しくはありません。

ただ事件発生当時、自らも命を絶とうとしていたのを知って、四の切じゃないけどその動作に意味があるはずと勝手に考えてしまってて、「命より大事なもの」が出来ていたかもしくはその「命より大事なもの」を失うのが怖かったのか、いずれにせよ命は二の次になっていたのかな、と読み取っていました。なんかこう、呆れるとか怒りとは別種の、理解しようとかその方面へなぜか思考がいってて、冷静になれずに居るのにそのとき気が付いています。

今日逮捕状が出て逮捕された報道を知って、おそらくこれから刑事手続きが進行してゆくと知りつつも「いつか戻って来れたらもう一度四の切じゃなくてもいいから舞台に立って幕見席で見てるこちらを唸らせてくれないかな」とうっすら考えていました。これ、おそらく文字通り贔屓目のはずです。匿名を奇貨として書くのですが、時間が経ってもいまだ冷静になれていなかったり。

冷静になってない文章ほど理屈が無く読みにくいものはないはずなのでこのへんで。