続・安政5年夏の状況(「安政コレラの感染経路を探る」を読んで)

万人受けしそうにない、細かい幕末の感染症のことを書きます。

秩父三峯神社という古社があります。去年の夏に社務所でわけていただいた冊子「みつみ祢山」251号の中に「秩父地方の疫病除け」(高橋寛司著)という記事がありました。幕末にコレラや麻疹などの感染症が流行したことを知ってはいたものの、詳細は知らなかったのでつい熟読しちまっています。その記事では安政五年に来航した軍艦ミシシッピ号を感染源として拡大した(一説には江戸だけで三年に渡って10万とも26万ともいわれる死者を出した)コレラについて七月の江戸の状況を「武江年表」を引用する形で紹介していて

狐惑(きつねつき)の患い(うれい)もあり。此等の妖孽(わざわい)を払う為とて、鎮守の祠の神輿・獅子頭をわたし、閭巷(ちまた)に斎竹(いみたけ)を立て、軒端には注連を引はえ、又、軒端には挑灯を燈し連ね、あるいは路上に三峯山遥拝の小祠を営しところもあり。節分の夜の如く豆をまき、門松を立てるも有し故、厄払いの乞巧(かたい)人もでたり。

というように(想像はしていたのですが)神仏に頼るしかなかったようで。

その記事ではコレラ除けに三峯山が出てくることに注目していて「狐惑の患」とあるようにコレラの正体を狐と考えていたことを紹介し、関東の一部では三峯神社は「(獣害除けとしての)四足除け」として知られていて、その四足除けがコレラの正体と思われてた狐をよけると解釈したのではないか、と指摘しています。

「袖日記」を引用しながら駿河富士郡大宮町(=いまの静岡の富士宮)の状況も紹介しており、富士宮では安政五年七月中旬から感染が拡大し、感染から三日で死亡してしまうことから人々に次々と憑依する「くだ狐」の仕業とされ、除災の方法を試みるも効果がなく、狐の憑きものおとしに御利益があると伝え聞く秩父の三峯の「生の御犬」を4町分4匹借り受けに(≒この時点では生きた犬を借りるつもりで)秩父へ行くものの三峯では

「生のカゲのと二色は無し、左様に疑う心ある処へは貸し難し、前々の通りカゲにて遣すべし」

としていわれてしまい、結果としては御犬様の神札を借り受けてそれが大宮町で祀られたようで。

三峯の「日鑑」によると(行動制限という概念も無いので)駿河伊豆甲斐からの「御犬様拝借」(いまは「御眷属拝借」という)が増えたほか東海地方から江戸にかけての地域から変病除けの代参も増え、「御犬様拝借」は安政五年八月中に1万にも達したらしく、三峯が山の中であることを踏まえると東海地方から江戸にかけて切迫した状況であったことが伺えます。

話がいつものように横に飛びます。

この文政五年夏のコレラはいくらか不思議な動きをしていて西国から東進して江戸に達したわけではなく、七月の駿河や江戸での流行のあとに大阪へ八月に伝播し、京都は九月です。この謎について「安政コレラの感染経路を探る」(渡辺浩一・REKIHAKU「特集・歴史の中の疫病」所収)という記事が検討を加えてて、知ったのは最近なのですが、やはり熟読しています。

上記の富士宮の感染拡大と同時期である安政五年七月に近くの駿河の𠮷原宿(現在の富士市𠮷原)でも患者が増加していること、長崎のほかに同年六月に下田にも軍艦ミシシッピ号が寄港していることをなどを踏まえ、記事では下田から駿河の𠮷原へ伝播した可能性を指摘し、𠮷原宿は東海道沿いで、結果として大名行列を介して江戸へ持ち込まれたというのを当該記事では仮説のひとつとして立ててています(ただし下田の感染発生は八月になってからなので下田から𠮷原へは無症状者が媒介したのではないか?とも)。

江戸市中でコレラが最初に発生したのは町名主の記録では赤坂で、その赤坂の近辺には東海道を上ってくる大名の屋敷があり、赤坂の隣は四谷で江戸の南半分の需要を支える上水道のひとつである玉川上水の終点でもあるのですがその四谷から芝口(いまの東新橋)のあたりの大名藩邸にコレラが拡がったことが仙台藩関係者の書状から読み取れることから、江戸に入ってからは上水道を介して感染が拡大したのではないか、とも指摘しています。

もうひとつの仮説は、町名主の記録として船乗りや八丁堀や佃のほか築地などの海辺や川辺に感染者がまず発生し山の手は少なかったこと、仙台藩関係者の書状からそのあとに本所深川に拡大したこと、などを踏まえ、(風待ち港でもあった)下田から来た船が江戸に来て小型船に荷物を積み替えるなど荷物を通じて人の接触があるところから感染がはじまり、運河の船運を通じて拡大を招いたのではないか、と。

江戸の感染は長崎から来たものではなく下田から駿河を経由して江戸へ来たものであるというのと、人を媒介として江戸市中に入ってしまってからは上水と船運によって拡大した、という上記の記事は三峯の記事からみても腑に落ちるもので、非史学科卒のシロウトながら傾聴に値すると思っています。

さて、幸いにも江戸期と違っていまは衛生環境が異なりますから上水道を介する感染拡大は考えにくく同列に考えるのは愚かですが人を介して・人の移動によって感染が拡大する点ではコレラも新型コロナも類似してる気がしてならず、どうしても現在を眺めたくなってしまうところがあります。第七波の流行や感染者数がなかなか減らない状況を鑑みると、ほぼ人流制限をしないという判断は江戸期と同じでもしかして歴史をくりかえしてしまう悪手だったのではあるまいか、という気が。

もっとも歴史ということに関してついでに書いておくとコレラが収束した翌年(文久二年)には外国由来の麻疹が日本襲います。この麻疹で側近などが出仕できなくなる事態に見舞われた孝明天皇は攘夷の意思を強く表明するに至ります。さすがに攘夷までは繰り返すことはないと思いますが。

最後にくだらないことを。

別の本『江戸の災害史』(倉知克直著・中公新書・2016)で、安政コレラ流行時のものとされる「借金をしやばへのこしておきざりや めいどのたびへころりかけおち」という狂歌を知りました。コレラは三日で死んでしまうことから三日コロリと呼ばれたこととコロリと恋に落ちてしまうことやこつ然と消えてしまう駆け落ちをひっかけてのもので、シャレにしてしまうことも含めて唸らされています。なんだろ、感染対策はしっかりするものの、仮にかかって助かりそうになかったらこれくらいのを一首ひねりたいな、と。