秘密もしくは嘘について(もしくは「今だから話せること」雑感)

音も無ければ姿も見えずまるであなたは屁のようなという形容がしっくりくるのが秘密です。屁は臭いですが秘密は臭くないという差異はもちろんありますが、我慢して溜め込んでしまうと動きがとりにくくなる点を含め生きてく上で秘密というのを抱え込むと厄介です。誰にも云えない秘密を抱えてしまうと「隠す」という手間が出てきますからめんどくさくなります。事実を他人に言わないで「隠す」ことは正直ではありませんから多少のやましさがありますし、ややこしいことにこの国は正直であることが美徳であるとする空気があるので隠すことは悪いことをしてるのではないかっていう錯覚があるはずで、そういうときいちばん楽なのは抱えてるものの秘密の一部を放り投げちまうことです。

たとえば。

私はどちらかというと性的少数者のほうに入ります。つまり若干秘密があります。しかしここでは匿名を奇貨としてそれを秘密にしていません。秘密の種類によってはという条件が付きますが見ず知らずの他人にはこんなふうに抱えた秘密を語ることができたりすることってありませんかね…って、秘密を貫徹できない弱いわたしの話はどうでもよくて。

話はいつものように横に素っ飛びます。

『君の膵臓を食べたい』(住野よる双葉文庫・2017)という小説では主人公がヒロインの山内桜良の秘密を偶然知ってしまいます。どんな秘密かは読んでいただくとして口外するなという約束を主人公はそのまま守ります。秘密を守ることが物語の主題では決してないのですが約束を果たし秘密を守り切ったあと、主人公は山内さんについたある嘘を一定の時間の経過後に告白します。それを読んでの仮説ですが、人は秘密は守れても嘘をつき続けることは出来ないのだとしたら嘘というのは秘密以上に重いのかなあ、と。

秘密や秘密より重い嘘は無い方がよいと知りつつ生きてく上で抱え込んでしまうことがあります。はてなの特別お題「今だから話せること」を引っ張ると「今だから話せること」というような一定の時間の経過後の嘘の暴露や秘密など抱え込んでしまったことの解放は、生きてく上で必要な作業なのかな、と上記の本を読んでからは思うようになりました。

ところで秘密<嘘と書きましたがもちろん秘密も嘘も実態はないはずです。しかし「音もしなけりゃ姿も見えず、まるであなたは屁のような」なもので扱いはほんと厄介ですよね…って真面目に書いてきたのに最後にそれじゃダメじゃん