小田原の老欅荘へ

たぶん何度か書いてるのですが関東は晩秋から春にかけて北西からの冷たい風が吹き、あたりまえのこととして北西の方角になにかしら遮るものがあるとその北西の風から逃れることが出来ます。小田原の北西には巧い具合に箱根があり避寒地としては最適で、なので小田原には明治期以降、政財界の要人の別荘や隠居所としての邸宅が大磯と同じく建つようになり、そのうちのいくつかが現存します。土曜日に(恥ずかしながら忙しかったので盆の時期に行きそびれていた)両親の眠る神奈川へ行き、小田原へ足を伸ばして現存する邸宅のうちの一つの老欅荘を見学していました。なお内部の見学はしましたが写真は撮っていません。

建物そのものは戦後建てられたもので、いわゆる近代数寄屋建築です。手前の鈴とも釜ともつかぬ形をしたくり抜きの明かり取りのあるあたりがほんらいの玄関です。施主は電力会社の経営者だった松永安左エ門という人物で耳庵の名もある茶人でもあってもちろん茶室もあり、(茶会のときには茶人がそこで待てるように)玄関の隣は寄り付きになっています。

松永さんは普段の生活もこの場所でしていたそうでもちろん玄関以外の出入り口もちゃんと用意されています。

建物内部は機能的に作られ美しく無駄がないです。ないのですが、それが貫徹されているかというとそんなことはなく、おまえどうしてそんなところに気が付くの?といわれちまったんすけど、炉は切ってあるものの茶室として作られたわけではない鎖の間というところの天井の一部に飴色の煤竹を白い漆喰で固めてある場所があって、その漆喰の仕上げがけっこう雑で、どうみてもそこはプロの仕事ではないのです。あとで職員の方に尋ねたらわざと松永さんがそのような指示をしていて、しかしなぜそうしたかはわからないようで。よくいえば施主のこだわり悪く言えば遊び心や脳内の妙な偏屈なところがたまに垣間見えるのが工業製品ではない建築の、とても素敵で厄介で面白いところです。

老欅荘の由来のけやきの老木のそのそばにある10t級の巨石は腰掛にはおあつらえ向きなんすが、市内の石切り場から持ってきたわけではなく、わざわざ黒部の山の中から持ってきたものです(正確に書けば持ってこさせたものですが)。会ったことのない人をあれこれ想像するのは愚かなのですが、一筋縄ではいかぬ良くも悪くも常識にとらわれない人ではあったのかなあ、という気が。

老欅荘のある敷地は松永記念館という名前で小田原市により整備されています。池のスイレンが終わりかけでした。なお園内は紅葉がある程度植わってたので青紅葉ならいまですが、秋も良いかも。

さて、バカにされそうなことを。

小田原は相模灘に面していて御幸の浜という砂浜があり、そこへも行っています。海のない街に住んでいるので海はやはりテンションがあがります。テンション上がったその4秒後

足もとに波が。足の裏から砂が消えてゆく感触を味わってきました。

いつかまた再び同じ感触を体感したいのですが、さて、いつになるか。