昔見た映画『スミス都へ行く』のこと(もしくは西大寺の事件の雑感)

スミス都へ行く』という戦前の米国のコメディ映画があります。若くて政治的経験が無い少年団の団長であったスミスが上院議員となってからの物語で、詳細はぜひ何らかの手段で確認いただきたいのですが、その映画のなかで無制限に演説するフィリバスターという戦術がでてきます。当時のアメリカの不思議で素敵でバカバカしいシステムなのですが上院の場合は議員の発言は自由でやろうと思えばいくらでも可能でそれを利用してスミスは演説を続け(記憶に間違えなければ全体主義体制をとる国からも視察が来ていたことをさらっと触れていて)、政界の黒幕である議員も聞いていて良心の呵責に苛まれます。どうなったかの結末は映画をご覧いただきたいのですが、民主主義の根幹には異なる意見であろうともそれを自由に発言でき傾聴できる環境があることが大前提であることがフィクションに載せられててうっすらと理解できています。この『スミス都へ行く』は大学の(たしか政治学専攻でなくてもとれた一般教養の)政治学の授業のときに興味がある有志だけに視聴させて貰えたものです。その政治学の授業でなにをやったかはほぼ覚えていないのですが(それじゃダメじゃん)、でも『スミス都へ行く』だけは強烈に印象に残りました。。

私の育った東京の郊外の街は革新系の野党がつよく地元出身の代議士が国会でなにかいったあとに学校が授業中であろうと街宣車が来たことがありました。周囲の大人がそれらを黙って受け入れてたのは、どんな内容であろうとも演説やそれに対する言語による反論の意思表示の自由が民主主義の根幹であると判ってたのではないか?と『スミス都へ行く』を見たあとに悟っています。

BBCはJapan's ex-leader Shinzo Abe assassinated while giving speechって書いてて暗殺の方が腑に落ちるのですがそう書くのですが)大和西大寺で政治家が演説中に暗殺された件を知りました。つまらないことを書くと私はその政治家のやじを含め政治姿勢を支持できません。しかし異なる意見を自由に発言でき第三者が傾聴できる環境が大事であると『スミス都に行く』の影響で考えていたせいもあって、その環境がこの国では維持できなくなりつつあるのか、といくらか衝撃をうけています。

スミス都へ行く』を学生時代に観た影響でひとつだけ強く懸念することがあります。ここで言論が委縮することは異なる意見を摂取できないことになるので、おそらく民主主義にとって良くないことなのではないか、ということです。(いままでも怪しいところがなかったわけではないものの)いままでと同じように異なる意見であろうともそれを自由に発言し傾聴できる環境が維持され続けることを願うばかりであったり。映画に影響されるのはどうかと思うのと、政治学も詳しいわけではないし、政治の話は苦手なのでこのへんで。