「道徳的にLGBTは認められない」雑感その2

何度も書いているのですが、一昨年からラノベの青ブタを読んでいます。シリーズ通しての主人公梓川咲太の妹のかえでは極度の人見知りで兄以外からの他人から電話をとることができませんでした。しかしこのままではいけないと一念発起して、主人公である兄とその恋人の桜島先輩の善意の協力で電話に出る練習をし、そしてそれをクリアします(「青春ブタ野郎はおるすばん妹の夢を見ない」)。が、いちばん最初はストレス負荷がかかったのかダウンします。そのことを受けて「理解するって難しいわね」と桜島先輩がつぶやくのですが、電話を容易につかいこなせる桜島先輩の視点からあらためて述べることで、電話に出る≒他人と声だけで意思疎通する、というあたりまえのように誰もができるはずのことに苦闘する他人(かえで)の姿に気が付き、読んでるこちらも自らと異なるところの多い他人を理解すること難しさや意思疎通することの厄介さに改めて気が付きます。個人的に読んでおいてよかった本です、って青ブタの話をしたいわけではなくて。ラノベであるものの本を読んで自分と異なるところを持つ他人という存在というのを改めて意識するようになったわけですが、しかしそれは誰もがそれを持つかと言ったら怪しいわけで、それはそれで厄介だよなあ、と。

話はいつものように素っ飛び、かつ、数日前に書いたことを引っ張ります。

「道徳的にLGBTは認められない」と発言した与党の政治家がいて性的マイノリティに属するわたしと異なる考え方を持つ人が居てもおかしくないのでそれはそれで不思議ではないです。が、(実存する)LGBTと道徳がどうしてくっつくの?とか私は考えちまうのですが、もちろんわかりません。ただ推測はできて、おそらく発言した人の中でLGBTは道徳的ではないという断定があって断定ゆえに説明の必要が無いと思ってるか、他人の考えをどこかで学習しててそれをそのまま述べただけなのではないかと思っています。だから結果的に私のような察しの悪い・頭の悪い人間には、え?なんで?LGBTと道徳とが結びつくの?となります。この問題、つきつめると自分と異なるものを持つ他人を「理解するのって難しい」ってなるのですが。

「道徳的にLGBTは認められない」となると桜姫東文章は僧侶と稚児が入水するところからはじまるのですがそのうちカットされるかもしれません。それくらい滑稽なことだと思ってるのですが、それは横に置いておくとして。

いまはくたびれたおっさんですがフジテレビのバラエティで性的マイノリティをコミカルに扱った番組を知って笑われる存在なのかと知って相応にあれこれ考えてた時期があって(おそらく「道徳的にLGBTは認められない」と十代で聞いたらいくらか動揺していたはずで)、おのれと他人が異なる可能性は承知してますが性的マイノリティではない人間の行為や発言に影響を受けてしまう性的マイノリティの十代とか居てもおかしくないはずです。この国には言論の自由があるのは知ってはいるのですが・法案に反対する自由はあるのですが、自分と異なる他人が居ることくらいは・自分と異なる若い未成年が聞いたらどう思うかくらいは、想像して発言して欲しかったな、とは思いました。

でもってLGBTを認めない道徳ってなんなんすかね。「吾輩は猫である」の大和魂みたいなもので、もしかして「道徳ってどんなものかときいたら、道徳さと答えて行き過ぎた、五六間行ってから、エヘンという声が聞こえた」みたいなものじゃなければいいのですが。