滑稽でコメディに近い笑えぬこと(もしくは同性愛に関するある文書についての雑感)

甲府駅から北へ行くと武田神社があります。創建は大正期で古社ではないものの武田信玄を祀っています。治水を含め甲州にとって功績があって神様として祀られてる信玄公ですが、同性宛の恋文とも思われる弁解の手紙も発見されています。信玄公も恋をしていたという事実が個人的には人間臭くて好きなのですが…って、そんな話をしたいわけではなくて。

唐突に甲府の話をはじめたのは「同性愛は精神障害、依存症」とする旨のどこかの大学の先生が書いた文書がある党のある会合で配布されたというのを報道で知って、仮に額面通り受け取ると「だったら人間臭い信玄公は精神障害とか依存症ということになっちゃうな」と思ったからです。念のため書いておくと人は誰しもが精神障害や依存症になっても不思議ではないです。ただ実際問題としてWHOの基準では同性愛は精神疾患とはなっていません。それでもなお「障害」や「症」と名付けることになにか意味があるのか?と考えると、そう名付けたい人の脳内にしか意味を持たないのではないか、と思えるのですが。

なおその文書では「性的少数者の性的ライフスタイルが認められるべきではないのは、家族と社会を崩壊させるから」とも書いてあったようです。東海道中膝栗毛という十返舎一九滑稽本がありますが、ご存じのように主人公の二人はもともとは陰間茶屋の客と従業員です。多くの人に読まれましたがどう考えてもそれが原因で江戸幕府が崩れたわけではありません。どことは書きませんがその党のその会合の内容というのは滑稽で風が吹けば桶屋が儲かる的なコメディに近いです。残念ながら私は(性的マイノリティなので)笑えませんが。

さて、くだらないことを。

蛤が名物の桑名で弥次さんが「おまへのはまぐりならなほうまかろう」(←よいこのみんなはわかんなくていいです)といって茶店の店員を触るのをみて、喜多さんも触ろうとして店員にはたかれるエピソードがあります。この話が何を示すか。(弥次さんも喜多さんも聖人君子ではないってのもあるのですが)他人の真似をすることほど不粋なことはないということだと思うのです。選良がそんな不粋なことをするとは思えませんが、他人の意見を丸吞みして似たような笑えぬことをいってるのを目撃したら、(全力ではたきたいところですがそれは政治家への暴力になってしまうのでできぬので)不粋な人だなと思いながら心底軽蔑するつもりです。