忘れたい失敗(もしくは靴下に求めるもの)

失敗した記憶というのは不思議と脳内に残ります。ふとした拍子にそれを思い出して声を出さぬものの「うがあああああ」となったりします。ただ本を読むと似たような体験をする人はいるらしく、開高健さんの「耳の物語」の中に(現在のサントリーである)寿屋の特約店向け冊子の取材で訪問した酒屋で失言したことをずっと忘れられずにいて「アチチ」となる事例に触れていて、読んで「ああおれだけではなかったのだ」と妙な安心をしました。妙な安心をした数分後「おれは作家ではないのだから物語に昇華することのない体験などを大事に記憶してたってしょうがない」と気づくのですが、失敗した記憶というのはdeleteしようとしてもなぜか失敗することが多いです…って私のポンコツな脳内の話をしたいわけではなくて。

話はいつものように横に素っ飛びます。

いまから20年以上前、いたすことをいたすようなホテルで、靴を脱ぐと靴下の先から親指がちょっと覗いていました。え?とほんの少し動揺し、次いで「こっち見てなきゃいいんだけどな…」と希望的観測を持ちながら横を向くと、目線は私の穴の開いた靴下に向けられていました。念のため書いておくと、その日は高くはなかったかもしれないものの新品の靴下をおろしてきたのです。にもかかわらず、隠すべき場所かどうかはわからぬものの隠れてるのが当然であるところがちらっと見えるというのはけっこう恥ずかしく、穴があったら入りたいという言葉の意味をイヤというほど学習しました。かなり印象的だったのか次回逢ったときにはからかわれながら靴下を貰っています。

以降、靴下を買うときには値下げ品などには目もくれず、値段が高くても良い靴下を選ぶようになりました。靴下に穴があいたからって死ぬわけではないものの、穴の開いた靴下を見られたことはいまでも忘れることが出来てないので変わりません。はてな今週のお題が「お気に入りの靴下」で、面白くもなんともないですがセブンプレミアムの靴下がそこそこの値段でやはり穴があきにくいので値下げしてなくてもここ数年続けて買っています。忘れたい失敗は人を保守的に変えませんかね。そんなことないかもしれませんが。