普通

東京から新宿や立川を経て高尾や甲府小淵沢へ行く中央線という路線があります。その中央線は途中まで快速と各駅停車しかありません。よく訓練された多摩地区の中央線沿線住民的には普通というと立川や高尾から出る甲府行きや小淵沢行きで、どちらかというと普通という語句に非日常の印象がありますって、そんなことはどうでもよくて。

この国の民法を開くと、末尾でないほうにあるのが俗に財産法とか契約法とよばれるものでたとえば売買とか賃貸借とか債務にかかわるものがあり、末尾のほうにあるのが家族法とよばれる分野で婚姻や離婚に関するものがあります。財産法や契約法とよばれるものが「人の合理的で打算的で選択的な意思に基づくもの」を前提にしてて、たとえば不動産を賃借するときや炊飯器を買うときにいろいろ物色して合理的に打算的に財布と相談しながら買うことが多いと思われますが、そういう行動を前提にしています。たいして家族法というのは「人の非合理的で性情的で決定的な意思」を前提にしていて、婚姻とその手前の恋愛というのは炊飯器を買うように合理的に打算的に動くか、というと必ずしもそうではないことがあるわけで、そこらへんを前提に制定されてるものなので家族法は同じ民法でも財産法などとかなり異なります。ここで民法家族法の授業をここではじめるつもりはありません。ただ家族法に触れた大学生当時には既に同性に惹かれる経験をしていた私は・童貞も処女も失っていた私は、「非合理で性情的で決定的な意思を持つ」という語句がひどく腑に落ちて、同時にひどく救われています。

「非合理で性情的で決定的な意思を持つ」選択というのは誰もが腑に落ちる合理的な選択ではありませんから、当事者はともかくとして当事者以外の誰もが納得する正解なんてありえないことを意味します。当事者以外が傍から当事者2人を見て「それは普通ではないのに」と思っても当事者たちは「これしかないと思ってしたいことをしてる」ので、「それは普通ではないのに」という意見は当事者たちにとってどうでもいいことであったりします。仮に「それは普通ではない」と云われても、そもそも普通ってなに?ということに直面します。高尾発小淵沢行きは別としてそもそも普通という言葉は普通という言葉を持ち出した人の脳内でなんらかの意味を持たせて納得するための幻想の定規なんじゃないかと思っています。

恋をする前に普通の男が居ない、というはてなで話題になった言説をまともに読んではいません。なのであさってなことを云ってる可能性があります。清潔感はなるべく維持するようにしててあいさつはするしお礼をちゃんと言うものの、私は誰もが納得する普通の男かというと確実に違うと思います。なので私は普通の男の定義に関して発言権はないはずです。でもこいつしかないという「非合理で性情的で決定的な意思」を持つ選択を誰もがしかねず、「合理的で打算的で選択的な意思に基づく」恋を誰もがするとは限らない社会で、普通や最大公約数的な理想を詰め込んだ普通の男を定義することに、なんの意味があるのだろう、ということはちょっとだけ思っちまったり。いや、それはてめえがいつも普通じゃないからだろうといわれればその通りで、いつもは快速か通勤快速にしか乗りません。

甲府方向へ行く普通について語ると中央線の下りは進行方向左手に座ることをおすすめします。笹子トンネルを抜けて勝沼ぶどう郷に着くあたりで視界に甲府盆地が、そして南アルプスの前衛の山々が飛び込んできます。何度も通ってるのですが、つい見ちまったり。