させていただく

私は日本語を母語としながらも日本語に詳しくないのでヘタなことは言えないのだけど、数年前から他の組織の人などが口にする「させていただく」ってのがずっと気になっていました。「する」意思を持つ人がへりくだりつつ、相手の同意を条件にしてるように見せながら、ほんとは異論なんかないことを前提としてる曖昧模糊とした言葉で、同意を条件にしてるようにもみせてるので断れば悪い人間にまつり上げられる可能性を秘めてるわけで・へりくだれば安定的に相手を操作できると思ってる前提の言葉に思えて、なんだかいやらしい言葉だなあ、と長いこと思っていたので私は「させていただく」というのはまったくつかいませんっててめえのことはともかく。
ほんとに偶然なのですが、司馬遼太郎さんの街道をゆくシリーズの「近江散歩・奈良散歩」を手にしてて近江の項を読んでいたら浄土真宗の近江門徒に触れていて真宗絶対他力の教養などが近江商人を丁寧な口調にさせたと説明してて、

この語法は浄土真宗真宗門徒本願寺)の教義上からでたもので、他宗には思想としても、言いまわしとしても無い。真宗においては、すべて阿弥陀如来―他力―によって生かしていただいている。(中略)この語法は絶対他力を想定してしか成立しない。それによって「お蔭」が成立し、「お蔭」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門まで行かせていただきました」などと言う。
司馬遼太郎「近江散歩・奈良散歩」P11(朝日文庫

と書いてあったのを読んで、目からうろこというか、なんだか腑に落ちました。昭和になって広まり「もちろん今は語法だけが残っている」とも書いてるのですが、信仰に裏付けされたことばの成り立ちを知ると「いやらしい言葉だなあ」というてめえの無知と勝手な感想をちょっと恥じたんすが。
もっとも語源を知ってもなお「させていただく」にはまだ抵抗があって、口にはできそうになかったり。