他人の意見の陳述に飽いてる空気

文章を書くときに苦労するので日本語すら満足に使えないおのれに嫌気がさすくらい日本語の知識が無いので言葉に関してえらそうなことは書けませんが、この10年くらい引っかかる言葉があります。たとえば前の首相がよくつかっていた「させていただく」がそうで、「する」意思を持つ人がへりくだりつつ、同意を条件にしてるように見せてはいるものの、ほんとは他人の異論なんかないことを前提としてる曖昧模糊とした言葉で、同意を条件にしてるようにもみせてるので異論があって断れば悪い人間にまつり上げられる可能性を秘めてて、すごくいやらしい言葉です。もちろん前の首相がどういう意図で使ってたのかはわかりませんし、前の首相に限らず個人の感想としてはここ10年くらいよく耳にするようになっている印象です。

「させていただく」は本来はすべては阿弥陀如来によって生かしていただいてると考える、絶対他力の考え方のある浄土真宗門徒の言葉で、絶対他力があってその上でお蔭という発想があって「させていただく」なのですが、いまは阿弥陀如来浄土真宗も関係なく妙なつかわれ方をするようになってるように思えます。ここらへん、日本人と信仰と言葉の関係が希薄になってるとか、言葉は生きているとか余計なことを云いたくなってしまうのですがそこらへんは置いておくとして。

話をもとに戻すと異論を封じ込めやすい「させていただく」にずっと違和感をもっていて、なんでこんなに浸透したのだろう、と長いことを不思議に思っていたのですが。

今朝、毎日新聞に載っていた五輪の組織委員会のトップの発言の要旨の文章を読んでいて、性別に絡めて会議などにおける意見陳述や議論が長くなっていることを嘆いてるように私は読めました。

考えすぎかもしれませんがその会議に対しての嘆きは「させていただく」と根っこでつながっているはずで、主語が大きいかもしれませんが、この国はもしかして他人の意見を聴くことなどに飽いてる空気があるのかなあ、と思えました。わたしも長い会議のようなものは大好きでたまらないというわけでは決してないのでヘタなことは云えません。ただ、人は他人の意見などに触れて考えを修正することがあるので、「させていただく」などのやんわりとした異論封じ込めや議論が長くなることへの嘆きというのが垂れ流される状況は、あんまり良くない方向へ全速力で進んでいる兆候である気がしてならなかったり。