「させていただく」雑感

「させていただく」という言葉があります。

この↑言葉についてなんべんか書いてるのですが長いこと強い違和感があります。もとは阿弥陀如来によって生かしていただいてると考える絶対他力の考え方のある浄土真宗の近江門徒の言葉で、阿弥陀如来が居て絶対他力という考えがあってその上でお蔭という発想があっての「させていただく」で、強い違和感を感じるのはもしかして私が浄土真宗ではないからなのかな、と思っていた時期があります。

違和感は阿弥陀如来のせいでもなく私が近江門徒ではないからでもなく、単に性根がおそらくひねくれてるせいで、「させていただく」という言葉がでてきたとき、「する」意思を持つ人≒主体性がある人がさも主体性がないように見せかけたうえで、同意を条件にしてるように見えつつも敬語的表現があるので異論があって断れば悪い人間にまつり上げられる可能性を秘めてて、異論を封じ込めやすいすごくいやらしい言葉に感じられてならず、私はまずつかわずに生きてきました、って私のひねくれた性根の話をしたかったわけではなくて。

11日付の毎日新聞に「させていただく」に関して言語学者の椎名美智法大教授のインタビュー記事が載っていました。詳細は毎日をお読みいただくとして、興味深かったのは椎名教授がアンケートをとったところ「させていただく」にある(相手の同意を求める・相手の許可を求める)使役性について意識してる人いまは減少してるそうで(結果として発話者も受信者も使役性を意識してないので政治家が仮に「反省させていただく」と発言しても発話者も受信者も違和感を感じる人がそれほど多くは無くなってきているわけで)、異論封じ込め的側面や同意に関する使役性にひっかかっていた私のようなのは少数派で、言葉の変化について行けてなかった、ということになりそうです。言葉は生きているといえばその通りなのですが「あ、時代に取り残されてしまったのか…」という衝撃が今朝は少しありました。おっさんになったのだな、というか。

また椎名教授は、相手次第の「させてくださいますか」に比べて「させていただく」は相手に触れずに済みつつ距離を置きながらその上で敬意を示せることも述べ、相手に触る面倒を避けながら丁寧な人と思われたい、などの気分の反映が「させていただく」(という言葉の話者)の急増につながってるのではないか?と指摘してて、確証は持てずなんとなくなのですがその指摘は間違ってない気がします。

ただ、なんだろ、もし仮に椎名教授の指摘が正しかったとしたら、いい人には思われたいけど面倒を避ける人が増え(≒異論があったとしても触れずに封じ込めて)、+他者の同意が必要な場面でも他者の同意を得るための言葉を知らない人が増え、ということになるので、それはそれでこの世に住むことはちょっと地獄のような気が。

「丁寧な人間とも思われたい」などと思ってないのでって、いちいち書かなくても良いことを書いてるおのれのひねた根性は横に置いておくとして、同意封じ込め的効能があるようなきがしてならず、強い違和感が解消したわけではないのでたぶんこの先も「させていただく」は私は使うつもりはなかったり。