消えた丘の上の町

5月か6月かそれくらいにトランプ氏が演説で「彼らはアメリカに自動車をたくさん送ってくる。けどアメリカはどうだ、シボレーを東京ではみかけない」「彼らはいつも打ち負かす」的なことを云っていました。いわゆる日本車たたきです。しかし北米で売られてるホンダ車の場合、9割以上がオハイオなどでの生産です。ホンダに限らずトヨタや日産は北米の雇用を支えてる側面があったりします。演説でおそらくちゃんとした数字を調べることもしないし、教える・伝えるブレーンがいないのだ、ということが理解できました。矛先は日本に限らないことがわかってくると、平気で憎悪をあおるようなこと・テキトーなことを云ってしまうのならば、おそらくそういう人物が指導者には選ばれないのではないか、という予測を立ててました。
つか、朝まで正直そう思っていました。
法学部には政治に関しての授業があって、必修ではなかったものの最初は単位欲しさに出ていました。その授業の際にっていうか授業ではないときに、アメリカには丘の上の町っていう考え方があって、丘の上にある町は丘の下にある町より絶えず視線を浴びるのとおなじように、アメリカの社会は模範たるべき行動をとらねばならないっていう(ある意味鼻持ちならないいやらしい)考え方があることを知りました。けっこう記憶に残ってて、同性愛に関する好意的な判決が続いたときにはもしかして「丘の上にある町」の影響なのかな、などと思っていました。そういう土地柄で、憎悪をあおるという模範的行動からかけ離れたことをしやすいトランプさんが勝つとはほんとに正直思っていなかったのです。もしかしたら十代の終わりに教えられた「丘の上の町」はいまはもう消えちまったのかもしれません。
でもって憎悪を含む言動というのは実はけっこう人に影響を与えやすいのではないか、ちょっと怖いなあ、と思っちまったり。