恐怖によるコントロール

会社法がなかった頃の商法の時代に三越に岡田さんという人がいて、社長在任中に愛人と思しき女性の会社からアクセサリー等を三越仕入れさせ、という事件がありました。当時の三越は取締役会はもちろんありましたし取締役もいたのですが、この岡田さんという人に引き立てられて恩義を感じる取締役が少なからずいて・つまり社長が人事権を掌握して取締役のキンタマを握ってる状態で、社長が公私混同同然のことをしても面と向かって忠告する人もおらずなかなか止められず、三井銀行等が圧力をかけて根回しをして取締役会でクーデターを起こして岡田さんを解任してケリをつけました。適任ではない人がなんらかのきっかけで人事権を掌握するとそんなふうに厄介なことが起きます。三越の件がきっかけではないのですが、いまの会社法においては代表取締役社長とかから人事権の権限を奪う条文を作っています。大会社の場合は委員会設置会社って言う会社法上の機関を設置できて、指名委員会ってのを作ってそこで役員候補を決めたりすることができます。取締役を誰にするかという重要な人事案を社長ではなくその機関で練ることができるようにしておき、さらに指名委員会設置会社の指名委員会は必ず社外の役員を半数は入れなければならないようにして、トップのイエスマンばかりを集めることを制度上阻止し、ほどほどに公正さが保てるように設計されてます(建前は)。
会社法を横に置きながら政府の組織を眺めてると、政府の重要な一定範囲の官僚の人事権は内閣人事局に集中させているのに違和感を覚えます。制度上は内閣が官僚の人事権というキンタマを握ってるわけで、にらまれたらアウト、李下に冠を正さず瓜田に履を納れずという高潔な人物ばかりならばいいのですが仮に人事権者が李下で冠の中に李を入れることをを期待していてもそれを嫌とは云い難い現状があったりします。おそらく限りなく「あったこと」を上が「無い」といえば「無いです」といわざるを得ないような≒事実を記載したであろう文書を書き換えねばならぬような、異常事態を誘発しやすい環境があるお役所の中で容易に発生しやすい状況だったのではないかと推測します。
おそらくそんな体験は誰もが体験することはないと思うのですが・世の中の半分はあたりまえのこととしてそんな体験はないと思いますが、ぶら下がってるものを「舐めていい?」と問われて洗ってあるし好奇心からいいよと答えたものの、まるごと口に含んで舌でコロコロ転がしたり・強く吸われたとき、強烈な違和感と「なんでもするからおねがいそれだけは勘弁して」って云いたくなるような恐怖を覚えました。そのときの相手はその反応に興奮してたのですがって、それはそれとして。いまでも相手がそこを握ろうとしたり口に含めようとすると抵抗します。おそらく人は弱いところを握られて恐怖を覚えるとその過去の恐怖の経験をことあるごとに想起して、想像できる来るかもしれぬ恐怖を可能な限り回避しようとします。
内閣がキンタマ握っていくらでもなんでもできる状態が変わらない限り、文書の改竄であるとか似たような事件はおそらく起きるんじゃないかと思っています。現行の人事権という恐怖で組織をコントロールしようというのはあるべき姿ではないような気がしてならず、当座のよすがとして内閣人事局から官僚の人事についての権限をとりあげないと、李下に冠を正さず瓜田に履を納れないような高潔な人間がトップに居るわけではないのなら、行政が正常化しないのではないかな、という気が。
政治のことは得意ではないのでここらへんで。