考えることについて(加筆あり)

私の母校というより母校の出身学部というかぶっちゃけ影響を受けた先生は【考える孫悟空】という言葉をつかってて、さらに答えはひとつではない、というのを叩き込まれたのだけど、しかし現実から少し離れたところにある学問はいくらでも筋斗雲を呼べて空を飛べるのだけど、いざ実際に外に出てくと、現実はなかなかそうはいかないよなあ、とおもっちまうのです。理屈の上では解法があっても、理屈の上では正しいことでも実践できないところはやはり実践できない。じゃあどうすればいいか。それが判れば苦労はしないわけで。


東京の私大の学長さんが、その私大の卒業式で、大学の存在意義は「考えるところ」である、「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為である、と述べ、考えるということについて、それは社会的に異物である存在になることも指摘しててその新社会人たちに異物であるように伝えてるのですが、考えることに関してはうーんそうかもしれないと思いつつ、社会の異物でありつづける、というのはたぶん【筋斗雲がない世界の孫悟空】であり続けることでもあるような気がしてならんかったりします。異物というのはすでに別に正しいものがあってこその「異物」ですからほんとに正しいかどうかはともかくとして常に小姑的な「そうではない」という否定と隣り合わせです。「そうではない」という否定はいままでがそうであったという根拠があるような無いようなもので、たとえ時代が変わっても「いあままでがこうであったから」という理由で変化に対応することが後回しにされがちで、異物が異物でありながら存在を発揮するのはそれはそれで非常に難しいことなんじゃないかと思うのです。また、考えることによって導かれた解がそれが最適解であるか証明するかとか、実現の可能性について手がかりがそれほどあるかどうかとか、妥当と思える答えがホントにあるのかどうかわからないことを、永遠に問い続けるほど実はしんどいことはないのではないか、と思ってて、社会の異物たれ、というのはいうほど簡単じゃないよなあ・大学の先生だから言えることだよなあ、などとゲスなこと考えちまいました。


なにかに疑問を持つ、ということは悪いことではないかもしれないのだけど、ややこしいのはじつは疑問を持ったことがらについて「それをどうするか」ということで、なんらかの解法を用意しなければ、それは孫悟空にもなれずに単なる猿に思えちまうのです。疑問を持ってそれをそのままにしておくとけっこう厄介です。もしかしたら私だけかもしれないけど、わからないことがある、というのはこんなこともわからないのか、という劣等感とどこか結びついてて、けっこう消耗しちまうのですけども。

つくづく失敗したなあ、とおもうのは条文などは覚えても「考えること」について大学生の頃にちゃんと考えなかった・基礎を構築しなかったことで、もしかしたら頭のいい人はそれができるのかもなんすけど、凡人はただのたうちまわってるだけだったりします。