性という人間の本能のようなものに対して人間自身の品位が反発することによって羞恥心って形成されます。それが性行為非公然原則とか性の非公然原則になります。外国はともかく、日本においては性に関して公然と振舞うべきではない、というコンセンサスがあります。そんな社会が長く続くと、世の中全体に至極あたりまえのように性の非公然性ができます。ですから性に関してオープンであることは場合によっては犯罪となります。たとえば性器に関して露出したら場合によっては処罰されることになります。また、性的羞恥心を害しそうなもの・善良な性的道義観念が揺らぎそうなものが公然と頒布されていたら警察としても動くことになります。
ただし芸術性があるという場合には、それほど問題にならないことがあります。何年か前にモザイクのない性器がうつってるロバート・メイプルソープという写真家の写真集が問題になったんすが、そのときは裁判所としては(芸術性という側面から)モザイクなしでもいちおうお咎めはありませんでした。でも芸術とそうでないものは何か、ってのは難しいです。メイプルソープの裁判でも少数意見として「性器が露骨に配置された写真はわいせつ物に当たる、芸術性があることを理由にわいせつ性を否定するのは許されない」ってのがありました。わいせつ表現関係の議論でよくでてくるところで、表現の自由憲法にある以上、芸術性があればわいせつとは考えるべきではない、ってのと、芸術的価値とわいせつ性は次元が違いいかに芸術性が高くてもわいせつ性があれば処分すべきっていう考えです。ケリがついてるか、というとついてはいませんってそこらへんはともかく。
今夏、画像ではないんすが、性器の3Dデータを頒布(頒布は有償無償を問わない)していた人物が逮捕されています。加工しなければならないものがわいせつ物になるのかというと若干苦しいのではないかと思えるのですが、再現可能であることを考えるとそれほど変なことではないです。でもって同じ人物が同じ容疑でまた逮捕されています。つかまったひとは表現活動の一環として行っていたのですが、その表現活動のきっかけはおのれの性器と対面して異形と感じ、おのれの性器が異形と感じたのは基本形を知らなかったからであり、その表現活動は性器にまつわることは隠すべきものであるのか、という問いかけがあります。
いきなりおのれのことに飛びます。私はこどものころに割礼が済んでいました。他人と違うということを意識していて、劣等感をもち、ずっと隠すべきもの、と思っていました。私は髪の毛や上半身などをじゅうぶんに拭かないままブリーフをはこうとしちまう・はかなければならないと思ってしまう癖があります。もし、性に関してオープンな社会であって、表現等により異形ではない、というのを知っていたらちょっと違ったかもしれません。言論の自由表現の自由に付随して云われることなのですが各種の情報や表現を制約なく受け取り・知ることにより人格形成に資することってやはりあるんじゃないかって、おのれの経験に照らしてもどうしても考えちまうのです。そこらへん考えると、オープンにしようとした逮捕された人に対して、趣旨はひどくわかりなんとなく肩入れしたくなります。
ただそれでもどこか性というのは非公然であるべきだよなあ、というのは捨てきれません。表現というものが、つきつめると反社会的なものであるとき、社会はどうあるべきなのか、それを許容すべきなのか・断固として認めるべきではないか、いまいちまとまらないのですけども。