経済系の週刊ダイヤモンドの先週号が「大学」に関してでした。そのなかで「つかえる大学」というのと「つかえない大学」のランキングがあって、あろうことか私の母校はつかえないほうの上位に燦然と輝いていました。とはいうものの「つかえる」人材が多いと思う大学と「つかえない」人材が多いと思う大学を尋ねて、「つかえる」から「つかえない」を引き算してその差で並べた(回答数が違うのに割合ではないところでランキングをつけてる)変なランキングなのですが。
基本的に人材を一方的に「つかえる・つかえない」という二分法で評価するのはいかがなものか、とは思いつつ、「つかえない」ってのはわからんでもなくて、ここでも何度も書いてる気がするのですが私は「解がひとつとは限らない(かもしれない)」という教育を受けてきました。別の大学を詳しくは知らないものの、わが母校の出身者はゴールまで複数のルートがあるとき常に他人と同じ考えをするとは限らないし、おそらく「こたえがひとつしかない」という発想をする人・同調圧力の強い人とは付和雷同しにくく相容れないかもしれません。
でもって根本的なところで、大学というのは人材育成機関なのか、ってのがあります。何年か前によその東京の私大の学長さんが、その私大の卒業式で、大学の存在意義は「考えるところ」である、「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為である、と述べ、考えるということについて、それは社会的に異物である存在になることも指摘しててその新社会人たちに異物であるように伝えてるのですが、どちらかというと母校も(通説に疑問をはさむと喜ぶようなところがあったので)社会の異物であり続けるような人間を意図的に作る機関という印象があります。社会の異物である、というのはけっこう厄介で、異物というのはすでに多数派的な正しいとおもわれるものがあってこその「異物」ですからほんとに正しいかどうかはともかくとして常に小姑的な「そうではない」という否定と隣り合わせです(ここらへんつかえない評価ってのにつながってくるはず)。「そうではない」という否定はみんなとちがうとかいままでがそうであったというような根拠があるような無いようなあやしいものなんすけども。そんななかで考えることによって導かれた解がそれが最適解であるか証明するかとか、実現の可能性について手がかりがそれほどあるかどうかとか、安易に多数解に従わずに社会の異物として問い続けることほど、実はしんどいことはないのではないか・いうほど簡単じゃないかもです。この世の中で「つかえない」という評価を受けることは、おそらくやすきに流れず社会の異物であり続けてて・社会のあちこちで「考える」というしんどい作業を続けてる証でもあって、もしかして誇るべきことかもしれないのですけど。
もちろんそんなふうに考えても「つかえない」上位にいたのをみたときのショックは、やわらぎはしないんすが。