屋久島の森の中へ

○遡及日誌第一日目
朝3時半起床で4時半過ぎの始発にのり、地下鉄と京急を乗り継いで羽田発朝イチのスカイネットアジア便で宮崎へ。なんで宮崎かっていうと一番最初は温泉に入ったりとか実はのんびりするつもりで、休みが取れるとわかった時点で宮崎行きの安い航空券だけ押さえといたのです。ところが出かける3日前になって本屋で目に留まった屋久島のガイドブックをぱらぱらと見てかなり惹かれ、ここに行かねば!と思い、目的地を変更。一人旅だからできる芸当かもしれません。幸い宮崎から鹿児島まで特急で2時間です。なんとかなるだろうと思って飛行機はそのままにしておき宮崎から特急で鹿児島へ。
鹿児島には正午前に到着。

屋久島へは鹿児島から船がでてます。私はジェットフォイルで渡りました(写真に写ってるのは種子島行き)。およそ2時間で屋久島です。



宮之浦港の写真。海辺ですがすぐ山がそばまで来てます。宮之浦の安宿に投宿。シーズンオフですからがらがらでした。で、海に面した部屋で海を眺めながらすこしだけ優雅にまどろんだあと、ほぼ予備知識がないまま屋久島入りしたので宿の人からいろんな情報を教えてもらったりしてました。登山届を書いたりも。

夕食はトビウオの姿揚げ。実はトビウオってはじめて食べました。うまいっすね。
この日は早めに夜9時過ぎに就寝。

○遡及日誌第二日目
前日登山届けを書いたり早く寝たのにはわけがあります。天気予報を確認し、山の天候が荒れないのなら縄文杉を見よう、と思ったからです。ちなみに縄文杉が居るのは島の中央部で、登山口までバスで1時間半、さらに登山口から徒歩で片道5時間、往復10時間。その登山口へ行くバスは一日2本だけで朝5時前後の出発です。それに乗るために4時起床。たださすがに早起きが二日続きはしんどくて、バスの中ではずっと居眠りしてました。

登山口から10キロ強ほどは森林鉄道の軌道そのものを歩きます。鉄橋もあります。この森林鉄道は現役で、私は遭遇しませんでしたがトロッコが走るらしい。

なんで森林鉄道があるかっていったら、簡単です。材木を運ぶためっす。屋久島は雨が多くて水に恵まれてるものの花崗岩が多く、あまり地盤に栄養がありません。で、そのぶん杉が長い時間をかけてゆっくり育ち、年輪の目が細かく狭いらしい。そうすると材質的に強度の高い材木になりやすいのだとか。昔はかなり林業が盛んだったようです。

昭和40年代まで森林鉄道の沿線に500人ほどの集落があってこれはその集落の小学校の跡地。


鉄橋の上から撮った安房川の写真。

トラックくらいの大きさの石がごろんごろん転がってて大きさの感覚がちょっと麻痺してました。念のため書いておくとこんな石が上流から転がってくるほどすごい雨が降ることがあるってことなんすけど。



大木を伐採したか、もしくは折れたかしたのだと思いますが、残った根に他の植物が着生してます。栄養分を吸う寄生とは違って、独自に根を張るんすよ。最初みたときになんだかすごいなー、と思ったのですが、そのうちなれちまいました。この写真はいちいち驚いてたときに撮ったはず。

森林鉄道の軌道を二時間強あるいたあと、山道へ入りました。これは翁杉と呼ばれてるもの。樹齢およそ2000年ほどの杉です。樹皮がコケに覆われてさらにナナカマドとか、サクラツツジなどいろんな植物が着生してます。翁、という名前はたぶん姿からくるのかも。いわれれば確かにご老体、っていう風格がありました。写真じゃ判りにくいですが。
屋久杉、と呼ばれるものは樹齢が千年以上のものをさします。それ以外は江戸時代のものでも小杉って呼ばれてます。そのことを抜きつぬかれつしていた阪急系のツアーのガイドさんの説明を盗み聞きして知ったんすけど、千年前って平安時代なんですが、大きさだけでなく時間の感覚がちょっと鈍ってきます。


ちなみに私は単独行動でしたが個人でもガイドさんを頼む人も多いです。ガイドさんは一日一万円程度から。その代わり知識も経験もものすごく豊富で、私も事前に知ってたら貧乏だけど頼んでたとおもいます。二言三言しゃべっただけでなぜか私のことを気に入ってくれたらしい阪急系のツアーに参加してたおじさんは「こっそりついてくればええやん」なんていってくれたのですがフリーライドは良心が咎めたので説明のときは離れてました。



ウイルソン株と呼ばれる切り株です。20世紀初頭にウイルソンさんという人がこの株であまやどりをし、海外に紹介したのでウイルソン株と呼ばれてます。高さは平屋建てくらい。推定樹齢およそ3000年。伐られたのはおよそ400年ほど前のこと。豊臣秀吉屋久島を支配していた島津家に京都の方広寺大仏殿建立のため伐採させたっていう説が有力。屋久島の杉は樹脂分が多く丈夫で腐りにくく江戸時代から重宝されてたようで、このウイルソン株の周囲の森は島津藩の治世時に片っ端から伐採されました。ただ伐採ののち再生し、いまは人工林のようになってます。
中は空洞になってます。なぜか水が湧き出でてて、そして祠があり木魂神社と名づけられてます。

ウイルソン株のなか。天井が抜けてます。上を見上げるとハートに切り抜かれた空と木立がみえました。
見上げてたらなんだかしばらく身体が動かず。


さらに進むと大王杉と呼ばれる巨木が居ました。

写真一枚では入りきらないくらいの巨木です。推定樹齢3000年。高さが25メートル、周囲11メートル強。
途中から一緒に歩いてたツアー客ではない農学系のお役人さんは40年前ここでビバーク(野宿)したのだとか。全然変わってないと懐かしがってました(変わってたら逆に問題ですが)。縄文杉が発見されるまで島で一番でかいとされてた杉で「ほんとでかいなー」って小声でつぶやいたら、「でかいでしょう」と返される。

専門家の話って非常に面白いのですが、なるほどなーと思わされたのが屋久島の不思議です。普通の森は谷には杉、尾根には檜なんすけど、それは杉が水分を必要とし檜はそれほどではないからです。でも屋久島の場合、尾根でも杉がかなり生えてます。普通の山と違って屋久島の場合尾根であっても杉が自生できるくらい雨が降ったり水分を多くを含んでるから可能なんだ、って教えてもらいました。



こちらは夫婦杉と呼ばれてるもの。
2本の樹齢およそ2000年の屋久杉の枝が途中でつながってます。つながってるというか片方の枝がもう一方の幹に癒着したわけです。あたりまえのことですが、原生林だからこんなことが起きるのでしょう。人の手が入ってる森ならばこんなことになる前に手を入れるはずで、改めて「手付かずの自然」っていうのを再確認。


4時間ほどかけて縄文杉前に到着。
写真は上部。


と下部。なお根元のほうの土壌流出が激しく近寄ることはできません。展望デッキから眺めるだけ。それでもかなり強烈な存在感がありました。ちなみに高さ25メートル、周囲は16メートル。ただその記録よりもうちょっと大きいんじゃね?って思えましたが。
上部にはナナカマドなんかが着生。下部はごつごつと瘤がかなりみえます。瘤があるゆえ材木に適さないという判断がされいままで伐採されずにすんだようです。なにが幸いするかわかりません。で、この杉が縄文杉とよばれるのは縄文時代から生き延びてるはずだからで、推定樹齢は7200年程度、という説が有力です。もっともほんとに7200年前からなのかは正直解き明かされてません。7200年前という数字は鹿児島県沖で海底火山の活動がそのときあって片っ端から生物がそのとき死滅したから、って言うところから来ています。で、ほんとのところ切ってみないと判らないっていう説も有りますし、切ったところで判らないっていう説も(年輪を数えようにも中身が空洞ってこともありえるので)。

ただ、縄文杉を前にすると何年前かなんてのは、どうでもいい気がしてました。人間なんて及びもつかぬ生命体ってのがこの世に存在するってことだけ判ればいいや、なんてぼんやり考えてたんすが。


少ないバスに乗り遅れると洒落にならないので適度に休憩したあと下山開始。



力尽きた老木の上に新しい杉が着生し、根を生やしてった姿をよく見ました。生きとし生けるものっていつか朽ち果てる日がくるんすけど、それでも過去の誰かの蓄積を継いで生き延びる生命ってのがあるんすよね。縄文杉を見たあとそんなことを考えながらちょっとだけ感傷的?になってこの写真を撮ったはず。


ヤクシカです。判りにくかったらすいません。本州の鹿より一回り小さい亜種です。陸地とつながってないから固有の生態系が屋久島にはあり、鹿も固有の進化をとげたわけっす(ただ悲しいかな屋久島固有の生態系ってのは微妙に崩れつつあって猿が人間の食べ物の味を覚えたりペットとして持ち込んだタヌキが野生化しつつある、なんての聞きはしました)。
ここの鹿はあまり怖がりません。実は歩道のまんなかで寝そべってました。で、声こそ出さなかったもののさすがにそんなものが道で寝そべってると思わなかったので驚いて後ずさったらそのリアクションに満足したのかどうかわからないものの脇へ退いてもらえました。
屋久島には鹿の天敵が居ません。そして豊かな自然があるからえさになるものも豊富で鹿は駆除をしないってな話を阪急系のガイドさんはしてました。長野なんかだと植林した新芽を食べちまうので駆除対象になるのを聞いてたので「へー」なんて思ってたのですが、後で地元の人に聞くとやはり植林した新芽なんかを食べちまうし、駆除することもあるそうです。ただ条例かなにかでおおっぴらには鹿を捕れないって建前になってて、こっそりと必要最小限の駆除をしてるのだとか。ちなみに鹿肉は名物料理で、鹿肉ってほんとは美味いらしい。



安房川上流。綺麗な、透明度の高い川です。ただ清き川には魚住まず、で、魚影はまったくなし。
不純物が少ない状態で湧き出した水がそのまま流れてくるんだと想像。



屋久島行きの船内で屋久島でのマナー遵守を呼びかける映像が流れてて動植物の採取禁止はもちろんなんすけど、生態系を崩さぬようトイレ以外は原則用便は厳禁ってのもあり、全般的に神経質すぎやしないか、なんて思ってたのですが、綺麗な川をみたり手付かずの自然のなかに一日居ると感覚的に神経質なまでに注意を促すのがなんかよく判りました。巧く説明できないんすが屋久島が手付かずのまま後世に残したほうがよい自然遺産だよってのはその通りかも、って思います。正直、言葉に説明し尽くせぬ、自然の不思議さと力強さのようなものを見せ付けられてちょっと衝撃を受けてたんすが。

下山のバスには間に合いました。
この日の夜、宿で芋焼酎を呑みながら研修で屋久に来ている同宿の人からいろいろお話を伺ったり。
○遡及日誌第三日目
まず宿からそう遠くない益救神社というところにお参りをしました。益救と書いてヤクと読みます。縄文杉から宿に戻るとき、登山口で観光バスがとまってたのですがその車体にかかれてた文字がよく行者がとなえる「六根清浄」で、あー屋久島って修験者の人が訪れるところなのかってのが判ったので絶対どこかに神社があるんだろう、神様が居るのならお参りしとこう、と思い、宿の人に聞いたのがこの神社です。別名救いの宮ともいいます。たぶん沖縄や台湾方面へ行くの船乗りたちにとって屋久島は荒れたときの避難場所であり水や食料が補給できるところなわけで「救われる」場所だったからでしょう。
歴史のある神社らしいのですが、戦時中に米軍が益救神社を攻撃し壊滅状態になった過去があるのであまり大きな神社ではありません。

鳥居のしめなわも不思議ですし、鳥居の左右に大きなソテツと松が並んでいるのがちょっと不思議な感じ。御祭神は山幸彦です。

境内に咲いていた桜。東京では散っていたのですが、屋久島では花見シーズンでした。鹿児島の南のほうの島だから暖かい、なんてのはほんと幻想でわりと標高の高い山が連なる屋久島はけっこう涼しいところらしいです。ちなみに私は黒いジャケットに黒いズボン、ライトグリーンのタートルネックの長袖だったですが、ちょっと寒かったです。



神社のそばに有った屋久杉の原木。加工する前のもの。大きな丸太も見えますが丸太じゃないのもあります。根っこの部分でしょうか。
ちなみに過去に伐採された杉の根が、樹脂分が高いのと森の中が水分が豊富であったゆえに腐らずにまだ残ってて、それを掘りここして加工したり、なんてのもこの町では重要な産業です。


ついで目指したのが白谷雲水峡というところ。軽い気持ちで行ったのですがここは勉強になるところでした。



ヤマグルマというトリモチの原料になる植物が屋久杉の幹に自身を絡ませています。ヤマグルマという植物は寄生しないものの自立できないらしく成長する過程で他の植物にからみついてゆくのですがここでは杉がやられちまってます。場合によっては枯らしてしまうため「締め殺し植物」なんすが、よりによって抱きつくように幹を一周するように絡んでて首を絞めてるようになってます。で、写真だとみにくくて恐縮ですが、その首を絞めてる先は杉が細くなってます。首絞められても生きてまして、杉の生命力ってすげーなー、と思いました。



通称、弥生杉。推定樹齢3000年の大木です。一枚に収まりきらないくらいです。この木も上のほうはいろんな植物が着生してます。高さ26メートル幅8メートル。

ところが悲しいかなこの木、この地を訪れた人が樹皮を記念に剥いで持ち帰る人がけっこう居たらしいのです。なもんですから下部はひどい状態になってて、保護のため近寄れないようになってます。


二代大杉と呼ばれる木です。いったん自然災害か何かで折れた杉の株の上にさらに別の杉が着生し大木になったと推測されてるので、二代大杉。もっとも一代目の切り株が残っていません。その部分は空洞になってました。



三本足杉。根っこが持ちあがってて、なんでこうなったかは不明で樹齢も不明です。

そしてその上部。光を求めて枝が四方八方に伸びてます。正直にいうと、ちょっとぎょっとしました。いくらか気味が悪いようなおどろおどろしい感じもしますが、生命力あふれる自然って本来こんなものなのかも、と思ってアップします。

二代くぐり杉。

先ほどの二代大杉と同じで一番最初にあった大木の上の残骸の上に二代目が着生したパターンです。で、一代目が消えてなくなった後そこをくぐれるようになった、と。ちなみに二代目も切り株化していて

こんなふうに天井が抜けてます。なにも覗かなくてもいいんすけど、なんかこう、覗きたくなって撮った一枚。



どうしてそんなところに道を作ったの?ってな不思議なところもあるのですが、ほんとこの渓谷では手付かずの自然の中を歩いてました。そして濃密な生き物の気配を感じてたんすが、写真ではちょっと伝えきれないのは歯がゆかったり。、

息をのむような自然がそこには満ちていました。

うっそうと茂る森。そして苔が石にまでびっしり。

(念のため書いておきます。スタジオ・ジブリの「もののけ姫」にでてくる森は白谷雲水峡っていう説があります。実際、現地でも白谷雲水峡を「もののけ姫の森」っていうふうによくアナウンスしてたのですが今年になってその看板を下ろしています。実物を見てアニメ作品どおりだー、なんて思う人がどれだけ居るかどうかわかりませんけど、そういうのを避けたいんじゃないか、って思いましたです。そう思う気持ちもわからんでもないっすけど、宮崎さんなりジブリの人たちが脳内で想定した森がインプットされた人が現物の森をみて架空の「もののけ姫の森」って感じるとしたらちょっと滑稽だよな、ってのを現地行ったら感じました)
森に4時間ほど滞在。


屋久島の半分もみてないのですが、いろんな自然をみせつけられてかなり刺激をうけそれが心地よかったのでもうちょっと滞在したいなと思いつつこの日の鹿児島商船の最終便で鹿児島へ戻りました。

船は西側にアサインされてました。焼酎を舐めながら西日を見てたら、あー夕陽が拝めるかも、と思いつく。念のため日没時刻をスチュワーデスさん(がわからなかったので)船長さんに訊いたらアナウンスしていただきました。なんだか恐縮。

で、夕陽。三角形の山は開聞岳です。船の上から眺める夕陽なんてたぶんはじめての経験。


○遡及日誌第四日目
半日鹿児島観光してました。


まず西郷さんの銅像を見に行きます。

判りにくかったら恐縮ですが西郷隆盛像。
東京の人間が見慣れてる上野の西郷さんは犬を連れて散歩してる庶民的な西郷さんなんすけど鹿児島の西郷さんは軍服姿です。ちなみに西郷さんは鹿児島では南州神社というところがあって、神様として祀られてます。


鹿児島には市電が走ってます。併走するバスよりほんのちょっと高いので乗るつもりはなかったのですがカラフルな電車をみてたら鉄分が騒ぎ出し、ちょっとの区間だけのりました。ここの市電がよそと違うのは鉄道敷を緑化を推進してることです。個人的にはその緑化し伸びた草が車輪とレールの間に入り込みスリップしないのかってのが疑問なんすけど、その疑問をぶつけたら刈るための芝刈り専用の電車を発注したのだとか。


ついで城山へ。西南の役の激戦地でもあるんすけど、観光地でもあります。なんで観光地かっていうと、桜島鹿児島市内が一望できるビュースポットだからです。

ところが(ひょっとしたら日頃の行いがいけなかったのか)運悪く、この日はご覧の通り見えませんでした。晴れてたら確実によく見える場所らしいんすけども。で、ボランティアのガイドさんは「こんなことってめずらしいです、滅多にないこと(ちょっと前にあった「ドカ灰」とよばれる)降灰の影響じゃないか、空気中に灰がまじりかすんで見えないのかも」なんてことを言ってました。
鹿児島の天気予報をみてると桜島周辺の風の動き、なんて趣旨の項目があります。噴煙がどっちへいくか、なんてのが切実なことなんだろな、と推測できます。好奇心で降灰した灰をどう処理するんすか、ってのを訊きました。市で火山灰を集める袋を配っててそれに降ってきた灰を入れ、集積所に出しておくと市役所がちゃんと回収し郊外で処理するのだとか。


さらにバスで仙厳園というところへ。
島津家の別邸なんすけど、普通の別邸とちょっとだけ違います。
幕末、島津家の支配下にあった琉球へ外国からの船が来航するようになってから島津家にその海外の情報が入ってたのですけど、島津家ではこのままでは日本は植民地化しかねないっていう危機意識があって独自に軍事力強化と殖産興業を推し進めます。で、島津家自ら仙厳園周辺で事業を起こし、幕末には大砲も自製しましたし機械工場や紡績工場もこの地で操業していました。その進取の気性の残骸というか遺跡が庭園内にちらほら現存してます。
たとえば

大砲製造のための反射炉の基礎部分。この上に上屋が有ったらしいです。

明治期に作られた水力発電所あと。

もちろんちゃんとした庭園やたてものもあるんすが。

琉球から贈られた書院

磯御殿。明治維新以降、鹿児島鶴丸城を出た島津家の当主が住んでた屋敷です。

磯御殿内部。内庭だけ撮っていいですよ、という許可があったのでとりました。若葉でこれだけきれいなので、秋はもっときれいなんじゃないかな、と。ちなみに出された茶菓がほんと美味しく、案内してくれた方の和装もセンスよく、そんなところにも大名屋敷の実力を垣間見た気もしました。

(有名らしい)獅子乗大石灯籠。


計算された美しさってものの片鱗が、あちこちで判ったのですが、ほんとは桜島がみえ、さらに錦江湾を池に見立てて、なんて雄大な発想でこの仙厳園は造られてるっぽいのです。でも桜島がまったく見えない日だったのでこの庭園を作った人の意図ってのを理解できてないかもしれません。


実は一時間ぐらいで切り上げるつもりだったのですがそんなもんじゃ足らないくらい、中身の濃い庭園でした。電車の時間が迫ってたので一時間半で泣く泣く撤退。



旅行中、そういやなんだかずっと植物を眺めてた気がします。
最後のとどめ、宮崎県庁前のクスの並木道。

何度か引用してますが東国原知事

時間的・空間的な移動(旅)は、人になんとも言えないエネルギーとドラマをくれる。
見知らぬ空間を観るということが、何故、人にこんなエネルギーとドラマをくれるのか?
その原因ははっきりとはわからない。
きっと人は、生まれるずっと前、どこかに「何か」を置き忘れてきたのではなかろうか?
その「何か」を見つけるためにこの世を移動するのだ。
東国原英夫「そのまんま日記」より。

と書いてるんすけど、生まれるよりずっと前からそこにあるものや生きてるものをみて、人間の小ささとか実は世界は生々しいものに満ちているとか、なんだかうまく言葉にならないし仮に言葉にすればするほどあたりまえすぎて陳腐になっちまうのですが、生き抜こうとする必死さとかを含めどこかに置き忘れたものの記憶の破片をちょっとだけ今回、拾った気がするんすよ。
それは幻覚かもしれないのですが。
東国原知事の言葉がなかったら全然意識しなかったことだと思うので看板にこっそりお礼を述べるため宮崎空港へ戻る道すがら県庁へよってから、帰京しました。