日光へ

温泉があれば行き先はどこでも良かったといえば良かったのですが土日で行こうとすると長距離とはいかず、日光へ行ってきました。
〇遡及日誌第一日目
東京を出発時には降雨だったもののいざ中禅寺湖畔に着くと晴れてて男体山がみえて「おお!」などとのんきに構えていましたが

写真の右側に華厳の滝があるのですが、おそらくそこらへんから雲がどんどん湧き出てきて10分もしないうちに男体山は包まれてしまい、やはり山の中なんだな、というのを実感しました。
最初に目指したのは中禅寺湖南岸の別荘群です

旧英国大使館別荘が記念館になっています。08年まで現役だった建物で、いまは栃木県が管理しています。この地に明治29年アーネスト・サトウが別荘を建て、それを英国大使館が別荘にしたという経緯があり、でも誰がどのようにして建てたかはわかりません。外装は黒塗りした板張りで緑に映えて良いのですが、もともとは違った色だったらしかったり。屋根はアスファルトシングルという(おそらく)アメリカの屋根材で葺いてて、湖側に幅の広い縁側があり内装を含め洋風建築っぽいのですが、

でも手すりなどにどことなく和風旅館っぽさがどこかにあるような作りです。途中で増築したことがわかっているものの当初の図面が残っていません。男体山は建物から見えず、勝手な感想ですが日本人なら男体山を見える場所に作りそうなものなのですが、景観とか山に対する執着がちょっと違うのかも。

ニコライ堂に関係したジョサイア・コンドルがアドバイスして作ったといわれる野面石積みの壁で、やはり書面はないものの、造成した土地の上に別荘を建てた痕跡であったりします。
英国大使館別荘からそれほど離れていないところに旧イタリア大使館別荘があります(ついでに書いておくとベルギーとフランスの大使館別荘が近いところにいまでもあります)

1928年築、97年まで現役で、設計はチェコのアントニオ・レーモンドとわかってるのですが日光の大工が建ててます。特筆すべきところは杉というか杉皮を割竹で押さえてて、

建物外壁が杉皮に竹で統一してあり

内装も杉主体で、天井一面、やはりここも杉皮と竹で細工してあります。思わず「すげー」といってしまったんすけど。西洋風なんすけど和風がないかといったらそんなことはなく、その空間にイタリアから持ってきた家具が置いてあって、でも全然違和感がありません。どこかモダンというか90年弱経過した今でも古さを感じさせない良い意味でのあざとさというか、デザインの勝利なのかなあ、という気が。

広縁も同じく、杉皮と竹です。

広縁からは中禅寺湖を眺めることが出来ます。桟橋がありますが、かつてはヨットやボート遊びをしていたという説明書きがありました。

1階に暖炉がひとつあるものの2階にはないので冬は寒くなかったのかななどと疑問を口にしたら「別荘ってたいていは夏を過ごすための場所だから冬は来なかったのでは」と同行者から呆れられちまいました。こんな別荘があったら通いつめる気でいたのでブルジョアにはなれそうにありません。ついでに書いておくと9月のはじめで半袖ではちょっと寒いくらいでした。

日光のいちばん奥の湯元温泉にお世話になりました。(手を膝の上に置かれてもみえないくらい濃厚な)白濁したお湯で、硫黄泉なのでうっすら卵っぽい匂いがするので最初はかなり引き気味だったのですが慣れてしまえば気にならずに済みました。
〇遡及日誌第二日目

翌日はいろは坂を降りて東照宮へ。さすが世界遺産でかなりの人が居ました。

東照宮には有名な「見ざる聞かざる言わざる」の三猿も居たのですけど、猿にたとえて「かくあるべき」ということの一節であることを今回知りました。子どものうちは「世の中の悪いことを見たり聞いたり言ったりしない」ほうがいい、という趣旨ですが、悪というものの存在がわからないと良いこともわからないのでは、どうなのかなーという気が。長いこと余計なことは見ない聞かない云わないだと信じ込んでいた無教養な人間なので、大きな口は叩けませんが。

東照宮からそれほど遠くないところに日光田母沢御用邸記念公園というのがあり、そこへも行きました。銀行家の別荘を明治時代に皇室がのちの大正天皇となる皇太子の静養のために買収し、戦後まで御用邸として機能していて、栃木県が総力を挙げて修繕しいまは公開されてます。

三階建ての木造部分は江戸期の紀州徳川家中屋敷を移築したものです。築170年になります。紀州徳川家中屋敷はいまの四谷の迎賓館のところで、明治のご一新のあと仮御所や東宮御所になり四谷に迎賓館を建てるとき資材を流用して日光に持ってきています。ほかに紀州家の中屋敷が皇室のものになってから明治期に東宮御所や仮御所時代に増築した建物を四谷から日光に移築した部分、田母沢御用邸となってからの明治の新築部分とその後の増築部分、大正天皇即位後に日光で静養するようになって大正時代に増築した部分、明治の銀行家の別荘だった時代に建てられた部分があり、江戸と明治と大正が混在する、部屋数は100を超える木造大建築です。

天皇の居室である御座所の入側(書院作りにおける通路のような場所)なんすが、江戸の杉戸絵に障子、明治以降の洋風の電気照明、黒漆塗りのはめガラス戸、床にじゅうたん、天井に和紙の貼り付け壁っていう不思議な空間で、江戸、明治、大正の様式が重なり合う不思議な空間があったりします。

奥が食堂で、ガラス戸に絨毯敷きにの部屋に床の間があり、白い壁は和紙の貼り付け壁で、和風のようで和風でない、かといって洋風のようで洋風でない、形容しがたい空間です。

和紙の貼り付け壁というのを勉強不足もあって今回はじめて知ったのですが、薄板を水平に打ち付けた木ずり下地の上に紙を場合によっては11枚くらい張り付けてあるのです。通気性が確保でき、皇室の建物のいくつかに採用されてるのだそうで、でももともとは田母沢がきっかけなのだとか。栃木県が修復した段階では県内の和紙産地で対応できないところは越前や西宮名塩の和紙職人に紙をお願いした、とのこと。

江戸期の建物が残ってる一方でどうしようもなかったのが屋根材で、サワラの薄板を葺いてあったものの日光はいかんせん湿気が多くだめになってしまったので、いまは銅板葺きです。

釼璽の間というのがあって剣と勾玉を奉安する場所が作ってあります。皇室の建物というのを正直詳しくは知りません。ですから「そんなものがあるのか」という驚きでしかないのですが、三種の神器ですからむげには扱えないのかも。写真右側が図面上は天皇の寝室です。ついでに書いておくと皇后の寝室は別のところにあって「は?」だったのですが、それはともかく。

お風呂場ですが掛かり湯のみであったらしく浴槽がなく(同行者は禊のようなスタイルだったのではないかと推測していた)、やんごとなき身分の方々というのは浴槽でいちゃいちゃじゃねえ、だらだらできなかったことを思うと大変な身分なのだなあ、とあらためて思った次第。

防空壕もありました。田母沢は空襲は逃れましたが近隣に古河電工日光工場があるのでいつ空襲が来てもおかしくない状態にあったようです。いまの天皇陛下は少年期に田母沢に疎開してて思い入れのある場所らしく一昨年、去年、今年と田母沢を再訪したい旨栃木県庁に打診があって準備もしてたそうなのですがいまのところ叶わぬようで、なんだかふつうのおじいちゃんだったら気軽にこれるのでしょうがそうではない難しさを思うと、天皇制というのは人をがんじがらめにする制度だなあ、と思っちまったり。

御用邸跡と聞いて、最初そんなところ寄ってなにがあるの?と思っていたのですが皇室の建物がどういうものかを知らないこともあってとても興味深い場所でした。

建物中心にみてまわってたんすけど、日光は刺激的でした。もうちょっと日光で遊んでたい欲を抑えて帰京しました。