もやもや

修験道神道ってのを正直系統立てて勉強してないので大きな口を叩けませんが奈良の山奥の大峰山の一部は女人禁制のままですし、高千穂の神楽の舞台も実は数年前まで女性は絶対入れない神域でした。これが男女同権に反する女性差別のあらわれだって言うのは簡単です。
でもえてして宗教上の教義や規則って言うのは社会の要請とはフィットしないことがあったりします。真宗大谷派の信者の大臣が過去に複数いらっしゃいますが、偶然か信念からかは正直判りませんが彼らもまた教義に反するであろう死刑執行のサインをしていません。ここらへんどう折り合いをつけるかはひどく難しい問題だと思うのですが、じゃ、その社会の要請にフィットしないからおかしいのか、って云うとそうではないんじゃないかな、と思うのです。


多数派への同化の強制ってのが実はマイノリティ問題の焦点のひとつだとおもってるんすけど、世の中、わりと平気で同化を強いたりしますが、それはたまに相手の信仰の否定を含むことになりがちなんじゃないか、と思えて仕方ないのです。


去年夏、ある宗教の信者の子供が瀕死の状態に陥ったとき親が教義にのっとり輸血を拒否しようとした事件がありました。この件は病院と児童相談所・裁判所が連携し医療ネグレクトに当たるとして裁判所で親の親権を剥奪した上で医療を継続したんすけども、主体的な意思を発揮できない保護が必要な乳幼児だからその処置は妥当と思いながら、なんだかひどくひっかかってるんすけど、そのもやもやの正体がわかるようなわからないような。
最適解がよりベターとわかりつつ信仰と相反するとき、やはり最適解が優先されるべきってのはそうなんですが。