まぐれ

夏に長崎でカソリックセンタに泊まったんすけど、カソリックセンタの人から誘われて韓国からきたクリスチャン団体の人と話しました。そんときに、何人かの日本人と複数の韓国人で日本語と英語でちゃんぽんで話してたんすけど、日本の神道や仏教について問われていくつか説明しました。その人たちはソウルからきて、訊けば長崎の殉教者の史跡をめぐったあと神戸で賀川豊彦という(コープこうべ創始者でもある)クリスチャンの社会運動家の史跡を訪ねて京都ではキリスト教徒の同志社大の先生の講演を聞く、というスケジュールで、USJにもハウステンボスにもよらないキリスト教づくめで、このまま韓国に戻られては正確な日本像が形成されないんじゃないか?と思って、たいして詳しくもないのに義務感から幾つか質問に答えました。
歴史をかなりざっくり説明したあと、神社の見分け方として鳥居があります、っていって、神社の写真を見せました。で、さらにわかり易いかと思って富士山はあれはご神体です、コノハナノサクヤヒメって云う神様があそこにいるんです、って話をしたら、日本の神様は自然崇拝なのか、っていわれました。や、そうではなくて、神様はいろんなところにやどりますし、日光東照宮徳川家康が神となって祀ってある、人も神となって祀りの対象になりえますって話をしたりいろいろ説明の言葉を尽くしたのですが、相手が混乱するのがよくわかりました。国学院とか皇學館をでたわけではないこちとらしがないあほう学部出身なので荷が重いってのもありましたが、八百万の神があたり前の前提に育ってる私と、キリストを主に信仰してきた一神教の世界の人とだと、ひょっとして話って噛みあわないのかも、っておもったんすけど。


その経験から感覚が通じる、話が通じる、なんてことなんかはほんとはまぐれなんじゃ?っていう認識をあらたにしたというか。
そもそも同じ日本語しゃべってても本当に通じたかどうかなんてわかんないじゃないすか。仕事してても問題が表面化しなかったから気づかないだけで、実は通じてなかった経験なんていくらでもあります。


でもそれでも相手を信頼したり言葉を尽くしたり相手を尊重したりしながら、なんとかしようとするじゃないっすか。だからこそ話が通じたときってたまに快感を覚えるとおもう。その快感があるから人って言葉を尽くしてコミュニケーションしようとするんすよ、たぶん。そう思いたいです。


ちなみに京都では自由時間があるらしいので清水寺のそばの地主神社を紹介しました。そこは恋愛の神様っすよ、そういう神様もいます、みんなうまくいくように拝んでます、いない人は良い相手に巡りあえるかもしれません、といったら、ヘーという顔をし、内緒でこっそりいかれたらどうっすか、といったら、にやって笑ったので、すくなくとも恋愛については抱えてる問題はいくつか理解しあえそうだなってことだけは判りましたが。