二日連続でちょっと休みがもらえたのでほっつきあるいてました
○遡及日誌一日目

まず向かったのは岡山駅から電車で二駅くらいの郊外にある弥生時代のものとされる楯築遺跡です。纏向遺跡に関する本を読んでいてこの遺跡を知りました。棺の痕跡がでているので古墳なのですけど、不思議な石造りのモニュメントのようなものがどういう意図のものなのか、よくわかっていません。

真ん中に中心となる石があるんすが祠になってます。いまでも崇敬の対象として神社として機能しています。それを取り囲むように直径35メートル四方に環状に石が並び(もしくはならんでたと思われる跡があったらしく)、さらに20メートル四方のなかに飛び石状に石が7つ8つ並んでるんですけど、もちろん意味はわかりません。ならんでるというか、いちばんでかいのは高さ2mあるかないかなんすが、いくつもの石が、突き刺さってるのです。で、この石が突き刺さってる表面の下に棺の痕跡があったのですが、けっこう大規模だったらしかったり。もちろん埋葬者の名前もわかりません。

これ、邪馬台国の時代の話なんすが、その時代の人の考えが理解できない、ってのは、よくよく考えると微妙なんすけども。

調査が進んだのが昭和40年代後半です。で、その不思議な石が並んでるのは丘状というか円墳状部分なのですがもともとは双方中円墳という左右に尾根があって上からみると串刺し状態になってたようなのです。

ようなのです、というのは最初調査した岡山大の先生は確認してるのですがある日突然造成工事がはじまって、丘状の石のある部分以外は崩されちまったからです。一方は完全に切り崩されて住宅地となり、もう片方はいまは給水施設が建ってます。だいたい20メートルくらいあったようです。東大構内の弥生町の遺跡の痕跡を見た時もなんだかなあ、と思わされたのですが、うーん。
古墳というといわゆる前方後円墳が有名ですが、それとはまた別種の、この地方独特の埋葬形式があったことだけは確かなようなのですけども。もっとも全国で統一されてるほうが考え方としておかしいのかもしれませんが。


いまの岡山県のあたりは古くは吉備という名前であったのですが、万葉集における吉備のまくらことばが「まがねふく」で、たぶん「まがねふく」≒「鋳鉄・製鋼技術」であったろうはずなんすが、およそ大和からみてちょっと異なる場所であったのかもしれません。なんどか反乱が起きます。その中で、温羅という悪党がでてきて、そこに現れるのが吉備津彦という神様というか人の話です。崇神天皇の時代に(崇神天皇がいたのかは横においておくとして)大和から遣わされた吉備津彦が温羅を退治して、それが吉備津彦とよばれ、いまの桃太郎伝説につながります。ちなみに吉備津彦の家来の末裔(といわれてるの)が戦前の犬養毅首相になります。

楯築からそう遠くない山の中に中山茶臼山古墳というのがあって吉備津彦が眠ってるとされるところがあります。

こちらも行ってみたのですが(吉備津彦は200年以上生きた計算になっちまうのでいたかどうかはともかく天皇家に関する場所なので)宮内庁管理なので壊されることもなく残ってます。この整備され具合を見てちょっとくらくらしたんですけど。ああーこれが一世万系の一族の威力なのか、と思い知らされました。

すぐそばにある吉備津神社吉備津彦を祀ってます。鳴釜神事という(釜で水を沸かし、米をいれたせいろをその上に置いて蒸すと音がするらしいのですがその音で吉凶を占う)神事で有名です。音がしないと凶なんすが、その神事にまつわる話が「雨月物語」の「吉備津の釜」です。実在の話かどうかはわかりません。

神官の娘さんが結婚が巧くいくかどうか釜が鳴るかどうかで占い、鳴らないまま婚姻生活に入ったものの、旦那さんは真面目な奥さん以外によそに女性を作り、奥さんの嫁入り道具等を売った金や工面した金で駆け落ちしてしまい、奥さんの亡霊がでてくるのですが、詳しい話はどうぞ本をお読みください。で、嫉妬ほどどうしようもないものはない、男がしっかりしてつれあう人を教育すればなんとかなるはずなのに、ということなんすけど、男がしっかりすれば済むかどうかはそれはどうかな、と思いつつ、他人を殺したくなるまでの深い嫉妬というのに直面したことがないのでよくわかりません(それが幸いなことなのか、それともほんとは不幸なことなのか、という判断はともかく)。信用が裏切られたときに相手に報復したいという気持ちも理解できないわけでもないし、男のだらしなさってのもどうしようもないな、などと至極当たり前のことをながーい回廊を歩きながらぼんやり考えてたんすが考えがまとまらず、嫉妬っていうのはほんとどうしようもないな、嫉妬の原因をつくるほうもどうしようもないな、人間ってどうしようもないのかもな、なんて考えてるうちにあー人間がどうしようもない存在だから人間の住むあちこちに神様という存在が必要だったのか、うまくできてるなー、なんてことを考えたんすが、あってるかどうかはわかりません。

境内にあったトンネル。「このトンネルをくぐり心に安心と安らぎを」

その反対側は「栄光への旅立ち、勝利はわが手に!」。
もしかしたら、勝利や栄光を手にしたら心に安心と安らぎを欲しくなり、安心と安らぎを得たら勝利を欲しくなるのかもしれません。
人間って満足を得にくい生き物なのかもしれないのですけどこのトンネルに深い意味があるのかどうかはわかりません。

ややこしいことに吉備津神社のそばに吉備津彦神社というのがあります。祀っているのは同じ吉備津彦なのですが、わけてるのは吉備津社が備中、吉備津彦社が備前の一宮という理由からだそうで。桃太郎の話がほんとに備中・備前のあたりの話なのか正直判りませんけども吉備津彦ゆかりの岡山には桃太郎の銅像もあります。私が生まれる前の時代の県知事閣下が県民の意識高揚を図るために作った、といわれてるんすけども。

個人的に悪いことをする鬼を懲らしめるのはわからんでもないのですが、なんだろ、武力にあかせて金銀財宝を奪い取ってくる時点で鬼と同じことしてるじゃん、みたいな。勝てば官軍・力は正義!というか報復譚なんすが、桃太郎的な善というものになんとなく違和感があります。


岡山の中心部へ戻って県立博物館を見学。岡山には何度も来てるのですが、ちゃんと観光したことがありませんでした。

用が済んだらそのまま新幹線で帰ることが多くて、今回は岡電もはじめて乗車

たま駅長の居る和歌山の路線を岡山電軌が支援してるので、そのラッピングの電車に遭遇。初乗り100円です。

図書館によったあとに瀬戸大橋を渡り、一路うどん県香川県へ。
○遡及日誌2日目
しっかり睡眠をとり、そのかわり早起きしました。早起きは三文のナントカといいますが、三文分かどうかわかんないけど、

朝の光を高松築港駅(お堀端に面してホームがある)で拝みます。

ことでんにのり栗林公園へ。高松の松平家が100年かけて完成させた大名庭園です。はずかしながら高松にも何度も来てるのですが観光するのはじめて。でもって栗林といいつつも、松が多かったです。

たぶん長江の赤壁を意識した赤壁

かなり広い庭園で、計算されてるので足を止めちまうのですが、まともにみようとすると1時間ではおさまりません。ついでにかいておくと、冬の朝にまともにみようとしてるのはいませんで、公園内の大半をほぼひとりで独占。
浜離宮と同じく鴨場もありました。

鴨が遊ぶ池からおとりを使って

ここへ鴨を招きよせて網で掬うのですが

鴨を観察するこの「のぞき」で、鴨は警戒しなかったのかなあ、などとやはりおもっちまうのですが。

栗林公園からさらにことでんに乗って西へ

来た電車のドアが開いたらことでんのマスコット、ことちゃんがお出迎え。冗談抜きでなにもしらないでいきなりめがあったときは正直びっくりしました。

時間があったので帽子をかぶせて一枚(なにやってるんだおれ)。

ちなみにことでんというのは、高松と琴平を結ぶ路線を持つ私鉄です。

終点琴平駅から金刀比羅宮こんぴらさんを目指したのですが

階段がはんぱありません。700段以上あります。最初は「♪こんぴらふねふね」のメロディが流れて軽快に階段を登ってたんすが、上にあがるにつれてすこしくたびれてきます。

駅からは30分弱くらい、ふもとからは20分弱くらいで本宮へ到着。 一年の計は笑顔にあり、なんて鳥居に書いてあったのですが、階段ではちょっとムリな相談かも。

あんまり天気はよくなかったのですが、本宮からはこんな眺め。

こんぴらさんにまつわる不思議な伝説がこんぴら狗です(白戸家のお父さんではありません)。こんぴらさんまで行けない庶民が飼い犬に初穂料や食費を入れたこんぴら参りの袋をつけさせて旅に出すとそれをみた道中の人が世話をして犬だけこんぴら参りをしてたのです。ほんとかなー、とおもうのですが、どうもほんとの話らしかったり。

また海にまつわる「ながし樽」という伝統があってこんぴらさんに直接行けない人や水運の神様でもあるので航海の安全を祈願する人たちが樽に初穂料や祈祷文を詰めて海に流すと、それを見つけた人はこんぴらさんへ代参するのです。こちらはいまでもあるらしかったり。
なんでかはわかりません。
ここはそういうことをずっと続けてる場所ということがわかって、ちょっと良い意味で開いた口がふさがりませんでした。神様がそうさせてるのか、人はそれほど意地悪ではないのか、どっちかかもなんすが。
琴平町には温泉が湧きだしてて、

日頃の疲れをとるためにゆっくり入ってきました。

お約束のさぬきうどんを食べてから帰途へ。

舞子・明石海峡大橋の下。私にとって日常とのそうでないところの境界でして、気分を切り替えて東京に戻りました。