岡崎にて(もしくはある刀工の謎)

誰の得にもならない読んでも時間の無駄になりそうなことを書きます。

私はなんの得にもならない「そんなものを持っててどうするの?」的な無用の長物をいくつか持っています。その筆頭が相続した刀剣類で、これを書いているのは一介の(勤務先は4階の)サラリーマンで勤番の武士ではありませんからなんの役にも立ちません。銃刀法違反にならぬように登録証は持っていて、その登録証を発行してもらう手続きのときに一口が天正年間に作られた美濃の刀鍛冶による刀より小さい脇差と呼ばれるものであることを知りました(もう一口は由来がわからない江戸期の刀)。

美濃の関はいまでも刃物産地で、刃物に関する資料館があるのを知って、登録証を発行してもらうときに教えて貰った脇差の刀工というか製作者名のメモを持参して去秋に岐阜へ行ったときに関まで足を伸ばしています。その刀工の刀は資料館にも一口収蔵展示されててマジか…と呆然としつつ、学芸員の方が在館中で質問できたのでその刀工について何点か教えて貰ってて、美濃の関には居たけど越後へ移住した、ということまではそのとき判明しています。ここではてなの

お題「思いつく限りの無駄な行為」

を引っ張ると、私自身は研究者でもないしそもそもたいした家ではないし名刀といわれるものでもないのでこれらの探索はどう考えても確実に思いつく限りの無駄な行為で、実在したことがわかったのでこれ以上深入りはしないつもりでした。

が。

今夏、浜松の天竜のほかに東岡崎というところに寄っていて

根がミーハーなので目当てはどうする家康展だったもののついでに隣接する岡崎城も見学しています。その岡崎城の内部は簡単な資料館になっており岡崎の歴史が紹介されていて、以前は岡崎も刃物を生産していたようで「そうなのか」と目をとめ、しかしよく読むと活躍した刀工の名として手許にある脇差を作った刀工の名前がなぜか載っていて、見つけちまったので「やばい…」と声を出しちまっています。ほんとはちっともやばくはないのですが。

関から越後を経てどうして岡崎へ流れ着いたのかとか、逢ったことのない刀工の身の上を案じたり調べたりするのはやはり思いつく限りの無駄な行為と承知してるのですが、そんな経験をしちまうとチャンスがあったら日本史の表舞台にはまず出てこない当時の刀工の動きについて調べてみたいという気持ちはあったり。それをどこで調べるかというのも難問ではあって、シロウトの手には負えそうにはないのですが。

ついでに書いておくとその刀工の脇差が甲州にどうしてたどり着いたか謎で、しかしその謎を解くのもなんの役に立たない無駄なこと認識しています。でも無駄な行為ほど、なんかこう、惹かれるものありませんかね。