関へ(もしくは江戸時代の脇差に関してのメモ)

これからまったく誰の役にもたたぬことを書きます。

世の中にはミニマリストという生き方があって最低限のものしか持たぬという考え方がありますが私は真逆で「そんなものを持っててどうするの?」的な無用の長物をいくつか持っています。その筆頭が相続した刀剣類です。二口あるのですがガマの油売りではありませんから持ってても意味がありません。とはいうものの勝手に処理もできず警察に届出をして銃刀法違反にならぬように登録証は持っています。その登録証を発行してもらう手続きのときに一口が天正年間に作られた美濃の刀鍛冶による刀より小さい脇差と呼ばれるものであることを知りました(もう一口は由来がわからない江戸期の刀)。とはいうものの曾祖父以前は甲州で大工や花火職人をやっていた家系で武士ではなく「なぜそんなものがあるの?」という素朴な疑問があったものの、知ったところでなにかの役に立つわけでもないので長いこと封印していました。

さて、岐阜と同じ美濃にはいまでも刃物産地であり続ける関という街があります。美濃の刀だすると関へ行けばなんとかなるのではあるまいか?ということで先日岐阜へ行く前に相談の上、関に寄っています。正確に書くと寄ったのは

関鍛冶伝承館というところです。

実物を持ってゆくわけにはいかないので登録証のコピー等を持参していて脇差に書かれてる名前の刀工の刀があるだろうか?と眺めているとに陳列してあるもののひとつにその名前がありました。ほんとに実在したんだ…という驚愕もあったのですが(つまりずっとどこか半信半疑だった)それはともかく、その刀工が後年美濃から越後へ移動していること、脇差が古刀とよばれるものであること、も展示から判明しています。

学芸員さんが在館中だったので事情を話して質問をいくつか投げています。そのうちのひとつの「武士身分ではない家になぜ脇差があるのか?」という問いに

脇差は刀とは異なり武士身分ではなくても持つことが出来た」

「移動する職業である場合は武士でなくても脇差を持っていることが多い」

「正装のときに脇差を差していた」

という答えを貰っていて、つまり移動する職業である大工や花火職人が持ってても不思議ではないそうで。東海道中膝栗毛の喜多さんはかつて陰間茶屋に居たのですが偽物とはいえ(水に浮かんでしまう竹製の)脇差を持っている描写もあって「武士でないと刀を持てないはず」という大学受験の日本史レベルの思い込みに完全に私はとらわれていたようで。

私は愚かなので陳列されていた刀剣類を眺めてて原材料をどこから調達したのかは気になってしまい「鉄はどこから持ってきたのか?」という質問もしています。ただそれについては完全には解明されておらず

「(安来などのある)日本海側から福井を経て関の周辺へ運んでいたのではないか」

という仮説を教えて貰ったものの、まだ研究の余地はあるようで。

知ったところでなんの役にも立たない些細なことなのですが個人的にはぼやけていたものがクリアになった感が関へ来て正直ありました。対象物の解像度は高くなったのですが、美濃で作られた脇差がなぜ甲州へ来たのか?という点から武器は流通したのか?とかの疑問も出て来ています。ひとつ知るとより謎が増えることってないっすかね?ないかもですが。

ところで先ほど関は刃物産地と書きましたが関鍛冶伝承館は刀以外のハサミやナイフ等の製品の展示があり、そしてその近くには

フェザー剃刀の資料館があります。いわゆるT字カミソリはもちろんのこと眼科医療用のメスなどもあって日本の刃物生産の高度化を含めた発展具合が視覚で確認できるようになっていました。

関は決して万人受けするような観光地ではありません。が、刃物を通して歴史が見えてくる奥が深い街ではあるかなあ、と。