「秒速5センチメートル」を視ての感想(もしくは記憶を長々と引き摺ってしまう問題)

スマホとかPHSが普及する前の90年代前半、自分専用の固定電話なんか持ってなかったのでテレホンカードを持って公衆電話をかけていました。冬など寒いのでいつしかそれが交換日記に変わります。会話と違って文章を書くというのは内容を文字だけで理解してもらう手続きで、意思の疎通というか書いてある内容について他人との共有を目論むものです。こいつまた厄介なことを書いてるな、と思われるのもイヤなので話を端折ると、私は交換日記を書いてる間は読んでもらう相手にわかるように書くことを含め、そのうち交換日記の相手を意識してました。なにを藪から棒に書いてるのかというと年始に「秒速5センチメートル」(新海誠・2007)を視聴していて、幾ばくかのネタバレをお許しいただきたいのですが、主人公が栃木に転居した女の子と文通をするようになって相手を意識するのですけど、相手に伝わるように書く行為から相手を意識してしまうのは上記のように身に覚えがあるので、最初のほうはちょっと抉られています。

秒速5センチメートル」がどんな物語かは何らかの手段で触れていただくとして、もう一つ抉られたのが主人公の記憶との向き合い方です。もう少しだけネタバレをお許しいただきたいのですが、主人公は栃木に転居した女の子との記憶を状態良好に大事に保存しています。そのことだけとってみれば決して悪い事ではないし責められるべきことでもないのですが、人は1人で生きてるわけではありませんから結果として誰かを泣かせてしまう・傷つけてしまうことになります。それらのプロセスが描かれてて最後まで飽きなかったのですが、(貸金庫の暗証番号を忘れても)主人公のように特定の記憶を状態良好に大事に保存する・引き摺ってしまうところがないとは云い切れないので、刃物で首筋を優しく撫でられてる感覚がないわけではなかったり。

だからなんだ?と云われるときつくて、文才のない私にはなんとも感想の云いにくい作品だったのですが、なんだろ、言語化しにくいけど言語化しようとするといまより非力で未熟な頃を想起してしまい、でも黙ってるには惜しいようなちょっと不思議な作品ではありました。

それとはまた別のこととして、きわめて緻密できれいな背景に惹きつけられてます。そのきれいさはこれがフィクションであることを教えてくれるのですが、月並みなことを書くと物語そのものは、登場人物たちが経験したことについてどこかにあってもおかしくはないよな、と思わせるだけの身近さはあったかなあ、と。