ドクダミ対アリエール

漱石の『それから』の中で代助は君子蘭の葉を切って、その匂いを嗅ごうとし、結果的に考え事を脳内から除去していることに気が付きます。それを読んでから植物園で君子蘭の葉を切ると実際にどんなにおいになるのかが気になるのですが、もちろん黙って葉を切るわけにはいきませんからやったことはありません。話を元に戻すとそれを読んでから匂いというのは人の思考をいったん止めるのではないか、と疑いはじめました。

ラブホなどだとシャンプーとボディソープが似た色合いの容器に入っていることがあります。これを書いているのは視力がよいほうではなく過去に間違えたこともあって「股間から柑橘系の香りがするんだけど」=つまり、おまえシャンプーとボディソープを間違えたろ、と動きを止めて指摘をされたことがあります(股間からの柑橘系の香りを他人が指摘するという状況はどういうことかよいこのみんなはわかんなくていいです)。その経験から匂いというのは思考のほかに人の行動も止めるのではと疑っています。が、他の人に尋ねるわけにもいかず証明もできず仮説にすぎません。

今週に入ってから住んでいるところに生えたドクダミを抜いています。いつもだったら古い軍手を使いドクダミの匂いのついたそれはそのまま捨てるのですが、なにを考えたか今回は捨てずにそのまま洗濯機に入れてしまったようで、他の洗濯物と一緒に洗濯しちまっています。軍手混入に気が付いたのは干そうとした段階で、でも干したらワンチャンありかも匂いが消えるかも、と考えそのまま干しています。

でもなんですが。

どうなったかな?と洗濯物を取り込んだとき、タオルとシャツと肌着からやはりうっすらとドクダミの匂いがし、なにも考えることが出来なくなり、動きがとまっています。やはり匂いは人の思考も動きもいったん止めるのではないかな、と。肌着をそのまま穿いて「股間からドクダミの匂いがする」という事態は避けたいので漬け置き洗いをしています。

さて、今回はアリエールはドクダミの匂いに勝てないという知見を得られました。米国のバイオサイエンスをもってしても克服できない自然の力があってもおかしくないのですが体感としてはやはりドクダミぱねえっす。