細川家の借金に対する姿勢について(もしくは『豪商の金融史』を読んで)

今月に入ってから『豪商の金融史』(高槻泰郎編著・慶応大学出版会・2022)という本を読んでいます。本書は大阪の豪商であった加島屋(廣岡家)について江戸期から明治にかけて追った本で、特に幕末から明治大正まで大坂の豪商として加島屋がどのように生き抜いたかについてが主題で、史学科卒ではない上に経済史に詳しくないので知らない分野ゆえにとても興味深かったのですが、恥ずかしながら主題ではないところにも目が行ってしまっています。本書は加島屋の歴史に触れつつも江戸期の金融についての解説が随所でなされていて、いつものように話が横にすっ飛んで恐縮ですが、加島屋とはあまり関係ないものの何度かでてくるのが・個人的に目が行ってしまうのが細川家の借金についてです。

江戸期に大坂は米取引をはじめとした経済の中心地として発展しますが最初からそうであったわけでは無く、17世紀中頃までは西日本の経済の拠点として京がその役割を担いつつ(P22)その後徐々に相対的に大坂の地位があがるのですが(P24)、細川家も京の商家から資金を借り入れていました。本書では新熊本市史の資料を基に慶安元年(1648年)当時の細川家の借財構成を記載しているのですが大部分を京の商人から借り入れ、元銀が7317貫、利息が年3割で2194貫、元利合計で9507貫、その年に京の商人に払えたのは594貫です(P23)。冷静に考えるとどう考えても破滅の道しか見えてきません。なお本書に記載されている江戸後期の天保年間に中津藩が借財整理のために加島屋から借りた資金の利率が年8.4%(P122)、江戸の寺社から借りた資金の利率が最大年17.5%(P118)なので、直接の比較は危険かもしれぬものの細川家の利息は足許を見られてる感が強いです。

現代の感覚だと足許を見られつつ破滅の道を歩むしかなかった細川家がなぜ生き残ったかについても本書では触れられています。

ひとつは債務の履行(いいかえれば債権の回収)のシステムが無かったことです。京以外でも細川家は借金を重ねて正徳三年(1713年)には江戸での借財が38万両に及び、債権者が町奉行に出訴しますが(P27)弁済命令が出るわけでも債務が帳消しになるわけでもありませんでした。

もうひとつは多額の借入を起こしてうまいこと踏み倒し→踏み倒して評判がよくなくて利息が高くても資金を貸したい商家があらわれた→結果として借入先を「とっかえひっかえ」できたことです(P27)江戸期の三井高房(四代目三井八郎右衛門)が執筆した『町人考見録』で京の商人の没落の原因のひとつとして挙げているのが各地の大名に資金を融通する大名貸しで(P25)、踏み倒した大名としてたびたび登場するが細川家です。三井が細川家に資金を融通していたかはわからぬものの特定の当主ではなく細川家を「不埒なる御家柄」とまで書いていることからすると貸す側としてはよほどのことがあったのではと思わされます。

なお京商人の没落については三井高房の指摘通り大名貸しが大きな要因ですが・そしてその何割かは細川家が絡んでるはずですが、米の集積地となりかつ物流の拠点となり得て物流に関連して金融取引が拡大した大坂の商人の躍進も本書には触れられています。

このままだと細川家がとんでもない大悪党になりかねないので大事なことを書いておくと、熊本では細川家の治世では一揆がほぼありません。年貢や税に転嫁して無理に返そうともしなかったのです。本書を読むまでどちらかというと「借りた金はなにがなんでも返済するべきである」という考え方だったのですが、読みすすめて返済を第一に考えていない細川家の対応を想起すると揺らいで来て、無理な返済をしなかった・無理な均衡財政をとらなかったゆえの不埒という評価がなんだか悪くないようにも聞こえるので不思議です。もしかしたらこれ危険思想なのかもですが。

主題の加島屋のことも書きたいのですが、上記のように私は危険思想に走りやすいのでもう一度頭を冷やして書きたいのでこのへんで。