「海の交通、布の交通」を読んで

「日本」をめぐって(Modern Classic新書・2008)という本を買いました。パソコンを修理に出しているときに買った故・網野善彦神奈川大教授の対談集です。本屋で手に取ったときには(私は法学部卒なので)網野善彦教授がどういう人であるかは深くは知りませんでした。開いたページの対談相手が江戸研究のいまの田中優子法大総長でその部分が「海の交通、布の交通」と称さてれて、蚕糸養蚕に関しての記述があって祖父と曽祖父は戦前まで蚕糸養蚕関係の仕事をしていたので気になって買うことにして読みはじめ、本書では網野教授が地方の資料を読み込んだ上での知識がのべられるのですが歯科医が患者の患部を見せていかに歯磨きが雑であったかを思い知らせるように、それまで理解していた日本史がいかに雑なものであったのかを思い知らされています。

田中教授との対談の「海の交通、布の交通」では桑都とよばれた法大のある八王子が登場します。八王子に限らず多摩地区は水田がなく畑作中心で養蚕が盛んな地域で、養蚕や機織りは主に女性の仕事で、そして市の立つ八王子まで自ら出向いて売り、なので現金収入は女性のほうが多かった、と田中教授は述べます(P18)。それをうけて網野教授は養蚕などのいわゆる「農間稼」の現金収入が多いことを踏まえて農業に従事していた男と比較し、また夫婦別財制であったであろうことに言及し(P19)、それをうけて夫が妻の財産を使い込んだ場合離婚時には返還しなければならなかったことを田中教授も述べています。網野教授は女性の方が強かった、とも述べてて、ここらへん、大学時代に家族法に興味を持ち関連して婚姻法の法制史をすこしだけ齧ったいた人間からすると妙に腑に落ちるところで、おのれの知識をの足らなかったピースを埋めてもらったような気がしています。

また田中教授との対談で、水田の少ない山梨県東部の都留郡を引き合いに「穀物を買う百姓」の存在をは網野教授は述べ、また八王子の市と微妙に関連するのですが交易を前提に作物や織物を作る社会であって自給自足の農村が多くそして動きが少なかったのではないかというイメージを否定しています(P20)。またもや個人的なことを書いて恐縮なのですが家に残る過去帳を見る限り曾祖父の前は大工なのですがその前は煙火屋(花火職人)です。江戸時代は桂川および甲州街道沿いの村に居たことになってるのですが寒村でそんな花火を打ち上げてたとも思えず甲府なり江戸なりへ活発に移動していたはずで、移動が少なかったということはないだろう、という網野教授の説は腑に落ちるものでした。

話はいつものように素っ飛びます。

川越に行くと唐桟というのがあります。唐桟は縞模様の木綿の布なのですがもとは桟留縞といい、マドラス(いまのインドのチェンナイ)の南にサントメというとことがあってそこから木綿布が積み込まれ東インド会社の手を経てやって来て、それを日本でも作りはじめたということをこの本では田中教授が紹介しています。唐桟は知ってはいたものの川越由来のものだと信じ込んでてインド由来とはまったく知りませんでした。私の無知は横に置いておくとして、田中教授いわく絣と更紗も入ってくるのですが唐桟と同じように日本でも作りはじめます。インドなどから来たものが複雑に混ざり合って栃尾の紬縞などにもなるのですが、技術の伝播に関して東国の荘園の年貢が布や絹であったことを踏まえて「百姓の生活の中に生きている広範な技術や知識」(P34)があったことを考えるべきと網野教授は指摘しています。はずかしながら本書の言葉を借りれば「突出した高度の職能を持つ少数の技術者」が技術を持ち込んだのではないか?と勝手に想像していたのですが、云われてみれば実際に生産する人を考慮をすれば私の想像は噴飯ものかもしれなくて、目から鱗でした。

上記について書いたのは6つある対談のうちの1つだけです。個人的に身近なトピックスなだけあって食いついて長々と書いてしまっていますが、ちょっと衝撃がでかかったです。「日本をめぐって」は他にはナショナリズムイデオロギー、網野教授の個人史的なことに関することも含まれます(なので必ずしも万人向きの本ではないです)。私はずるずると網野教授の「日本とはなにか」(講談社・2000)を買い求めていて、ちょっとずつ読みすすめています。テストがあるわけでもないのにいまさら日本史を学んだところで何の足しにもならないのでバカだなあとつくづく思うのですが、歴史に名を遺したわけでもなく教科書にでてくるような水田で稲作をしていたわけではない一族の末裔としては、歴史に名を遺したわけでもなく教科書に出てくるような水田で稲作をしていたわけでもない人々がどうくらしていたのか、というのがやはり気になるのです。