○○でないやつは●●

【○○でないやつは●●】っていういいまわしがあって、この言葉の恐ろしさってのは、二択しかないところなんすよね。答えがひとつ、ってのよりましで二択あればいいほうなのですが、場面によっては恐怖になるわけです。する・しないの選択肢があったとき「○○をしないのがよい子」って言葉が発せられたならば、それをするほうはよい子ではないわけで。
【○○でないやつは●●】というのは選択肢は二つあるけどどちらか一方に誘導する、どこか同化を求める・相手の反論を封じ込めるための言葉なんすよね。同化を求める・反論を封じ込めるのは、最初に断定からくる結論ありきで、その結論を動かしたくないか・動くとも思ってないか、のはずなんすが。
まじめなことを書くと、より恐怖となるのは、その行為が善意を必要とするものであれば、行為をしなかったことが「善意がない」っていうふうにとられかねない・間接的に善意の強制になりかねないわけで。


善意のある行為に対して第三者・政治家が敬意を表する、なんてのをきいて、言葉ってのは怖いよな、なんて思っちまったのですが。もちろん善意は悪いことではないし決断に敬意を表するのは感覚的に判るんすよ。
けど、医師でもないし当事者でない第三者・政治家が改定された法があるとはいえ臓器移植に関し「よいこと」のようにその善意を必要とする行為やある種の決断を積極的に論評していいのかどうか。言葉というのは言外の意味をもっちまうことがあって、その善意を必要とする選択・決断ができない・できなかった、って考える人が世の中に居てもおかしくなくて、そういう人に対しての配慮ってのがあってもよかったんじゃないか、ってなことをすこし考えちまったんすけど。
杞憂ならいいのですが、人の死に論評のかたちである誘導がなされてるふうにみえることに、なんとなく恐ろしさを感じてるんすけども。