元気をもらう

あいまいなままあいまいな言葉があふれると、空気を読めといって良いほうに強制させるから厄介です。いまにはじまったことではなくて、いちばん顕著なのが「面白い」「つまらない」です。なにがどう面白いか・なにがどうつまらないか、を述べないまま、面白いからもっと面白いことをしろ・つまらないから退屈させるな、というのを「面白い」「つまらない」はどこか含んで、その方向へ持ってこうとします。ほんとはそんなことしなくてもいいのですが、つまらない・面白いと言われたほうは面白くしないと「空気が読めない」ふうになっちまいます。批評的なことを云った方が実はその場を支配し、なにかを強制させます。


最近よく聞くフレーズの「元気をもらう」という言葉がなんとなくひっかかったのは、「元気をもらった人」がどう思ったか、というのがない点です。たぶん「元気をもらって私も励まされたきがするぅ」なのか「元気をもらって私も負けてらんないと思ったぁ」みたいなものなのか、どっちかじゃないかとおもうのですが、「元気をもらう」という言葉を聞いたほうが正解探しをして処理をしなければならない点で「元気をもらう」という言葉はあいまいで、どこか厄介です。また「元気をもらう」というのは、良いほうに斟酌してそれはよかったね、という反応を強制しかねない、と思ってます。だからなに?とは善意の否定になっちまうから言いにくい。


「元気をもらう」なんてほんとは他人に云わんでもいいと思うのです。「元気をもらった」と思える相手に伝えればいいはずで、さらに「元気をもらった」って表明することで「わたしはポジティブ!」表明してるわけで、他人のふんどしで「自分はいい人」アピールしてるところがないわけではないような。
でもって厄介なのはあいまいな部分を持たせながら空気を読むことを要求しつつ「元気をもらった」という善意を表明することでその言葉を斟酌しながら受け取った側に「あなたは何か誰かに与えましたか?」という脅迫めいたものを、提示しかねないのです。また間接的に善意やポジティブはもっと広がるべきだというニュアンスを持ちはじめるんじゃないかな、と思ってます。


元気をもらうという言葉に違和感があるとしたらそこらへんなんすが、違和感を感じるのは善意というのはこっそりやればいい・謝意というのも相手に伝わればいい・ポジティブは他人におしつけるものではない、と思ってるせいかもしれないのですが。