今週、日本橋のタカシマヤは福島県の学校で津波に遭ったピアノを展示していて「奇跡のピアノ」っていうふうに名づけてあって桜の木を植える募金を募ってるのですが、なんていえばいいのか楽器が復活したことは悪いことではないものの、安全地帯に人がいて・もしくは世の中があって、安全地帯から奇跡の美談を通して震災を眺めてる構図なのだな、というのをあらためて気づかされた気がしました。公共施設が津波をかぶったという事実はどこまで防災を追求すべきかとかいろいろ考えちまう題材なんすが、物語にしちまうと印象に残るけど語られなかった部分はそのぶんおざなりになるわけで害しかないんだけど、なんかこう、違和感があったわけです。
この「安全地帯からものごとを眺めてる」観、というのは私個人は「がんばろう日本」にも感じていました。この言葉けっこう厄介で善意の「がんばろう日本」ってのにたてつくと「がんばらない」、善意を拒絶することにもなってしまい、逃げ道がないのです。いわれたら、がんばるしかない。選択肢はひとつしかない。本来強いてはいけないことばのはずです。でもって「がんばろう」というのは酷な状況・過酷な環境に対しても誰もがいうことができます。おれが変である可能性が高いのですが、「がんばろう」というのは安全地帯から事態を鑑賞して感想を述べてるようにしか聞こえませんでした。最初「なにをいってるんだろう」という違和感がありました。いまでもとても空疎で変な言葉だなあ、って思っちまうのですが、いまではなぜか定着しています。
あの地震からこっち、なんかこう、安全地帯からものごとを眺めるにはうってつけのほかのものをどこかにおいやるようなわかりやすい奇跡と、安全地帯からものごとを云うにはうってつけの空疎な言葉が増えちまった気が。もちろん被災地がそれで復興するなら、文句を言う筋合いはないのですが。ぜんぜん関係ないかもしれないけど、なんかこう、伏流水のように違和感があったものが、ここ数日で紐付けされて、おのれの中でことばにすることができたような気がしました。