多様な価値観

たぶんフロントホックブラの話を何度か書いてると思います。どういうものかと説明させると女性だと前にホックのあるつけやすいやつっていうはずで、男性だと前にホックのある外しやすいやつっていうはずってやつです。その差はブラをどう見てるかの差です。男子からすると外すものだからっすね。ブラって。
そういう視点の差は性別や経験や育ってきた環境によって差が出てきちまうのは仕方ないことなのかな、なんて思うのです。フロントホックブラなんてつけるはずすのどっちが正解なんてことはありません。ものをどっちからみてるかに過ぎないのです。他の視点があるなんてブラジャーを片方からしかみてないから気がつかないだけのはずっす。特にブラの場合は男は。


自動改札って必ず切符を入れるのは右側にあります。左側にはありません。多くの人はそれをおかしいとはおもわないはずです。で、そうなったのはたぶん右利きがマジョリティだからです。自動改札に限らずいくつもの点でマジョリティがマイノリティの視点を排除して、それによって社会のシステムが構成されてます。だからかもしれませんけど「女性の視点から」なんて言葉がよくでてきます。たぶん女性からすると社会の不合理なところがたくさん見えることがあるんでしょう。でも、それが片方からしかみえてないのであるならばブラの話と同じことで、別の方向からみて思考しなければ意味ってあまりないはずです。余談ですが「生活者の視点から」なんて連呼してる政党のひともいますけど、生活者の視点からだけみたって政治は良くならないはずっす。片方からみてあれがおかしいこれがおかしいなんて誰でもいえて、その解決策を見つけるときに視点を変えることがヒントになるんだけどそれが出来ない人を政治家にしたって政治問題のシフターとしては有効だけど頑強な少数派の利益代表を送り込むだけにすぎないっす。


気がつかなかった視点からの捉え方を知ったときにそういう見方って面白いねー、とかそういうことをいう人っているんすけど、ほんとはこちらからはそう見えるだけで面白がらせるために指摘したわけじゃないけど、それが判ってもらえなくても仕方ないのかな、と思ったりもします。判らない人は、判らないことは本気で判らないはずっす。見えてない人にはほんとに見えてないっす。フロントホックブラみたいに偏った見方しかしてなくても、それが見えてる全てだから他の見方があるなんてなかなか想像がつきません。緻密な司法制度が出来た理由が判らない人にとっては弁護人が凶悪犯罪者を弁護することが判りにくいはずですし、経済は政治家や官僚が動かしてると思う人は市場経済に跋扈する「神様の見えざる手」が覚知できないはずですし、幸福なマジョリティの異性愛の人からすると同性愛も異性愛も同じに見えることもあるみたいですし、事実とか差異が見えないこともあるわけっす。その事実や差異が見えず、きちんと理解できないでいて、その理解できないことの不満を見える人にぶちまける人もいます。不満ぶちまけたって意味はないんすけど。光市の殺人事件の弁護士叩きや官僚叩きや同性愛嫌悪は事実や差異がみえないし見えたとしても理解できないことへの意思表示であり、理解できないことの不満が他人に対する転嫁したものじゃないかと思っていますけど。事実とか差異とか他に視点があることに気がつくか否かはたぶん、視力か繊細さか、もしくは不幸にも切実さの問題です。
繰り返しますが世の中って偏った見方に満ちてるんすよ。児童ポルノ問題もその延長線上です。リアルに未成年の服を無理やり脱がすことをほんとにやっちゃったらダメですが、でも脳内で未成年の衣服を脱がして想像して絵を描いてもほんとはいいはずなんすよ。モロのわいせつ画像は別としてそこのどこにも否定すべき違法な行為がありませんから。未成年がレイプされてる小説やマンガを読んでる人たちは性犯罪を起こす確率が高い犯罪予備軍のはずだから、じゃあ彼らが変なことを起こさないようにマンガやアニメを規制しようってのは偏った見方からくるものでやはりおかしいはずです。ただどれだけの人がその「おかしさ」に気がついてたのか正直判りませんけど。


多様な価値観って言葉を見かけるたんびにいったい、それってどういう意味なんだろうと考え続けてて、いうのは簡単だけどそれってほんとに難しいことなんじゃ?なんておもうのです。多様な価値観を、偏った見方に満ちてる社会で相互に理解でき、共有できるんすかね。現時点では経済や司法の言葉すら、社会には通じないことがあるわけで、更には視点の差ってなかなか越えられないし、偏った見方ってなかなか除外できないとおもうんすよ。
唯一判ってるのは偏った見方からくる価値観だけでものごとを判断するのはどこかおかしいってことだけなんすけど。それじゃまずい、とおもいつつ、見えにくいものを説明するのって難しい、と思っちまうのですが。