それが悪いことなのかいいことなのか判らないけど、世の中のなんとなく子供に合わせて動いてるような気がしてます。
ここ何年か夏は東京だと各駅にポケモンのキャラのスタンプがおいてあってそれを集めると何かもらえるらしいポケモンラリーってのをやってて(ポケモンってJR東日本が一枚噛んでるので宣伝でもあるんすが)そのイベントにけっこうな数の親子連れが参加してるのを目にしてるせいかもしれません。また、東京・豊洲と西宮・甲子園にあるキッザニアっていう、子供向けの職業体験テーマパークってのがあります。子供がガソリンスタンドやビル建設、百貨店、放送局、宅配便の仕事を擬似体験して(出光とか三越とか大成建設とかJ-WAVEとかヤマトが協力して本格的に作ってある)、さらにそこで働いたあとは給料が出て、それをテーマパーク内で使えるシステムです。偶然、知ったのですがたぶんキッザニアが私の子供の頃にあったら感激して何度も連れてってとせがんでたはずです。
もっとも、今の子供が羨ましいか、って云うとそれほどじゃないです。それと昔の子供のほうが今の子供よりも自分で周囲を観察し楽しいものを探す楽しさってのを享受してたんじゃないかってな気がします。半分負け惜しみですが。正直、キッザニアは羨ましい。


自分が子供の頃どうだったか、って云うと子供向けのものがなかったわけではないけど、大人中心だった気がします。だからか子供は子供で面白いことをひたすら探してた気がします。夏休みには貯水池へ伸びる(なんてことは終点にたどり着くまでよく判ってなく、誰も終点を知らないひたすら直線の道が気になってあの道へ行ってみよう、ってなことになった)自転車道をひたすら西進する冒険とかの他に、いまから思うとなんでそんなものを必至にみんな探してたのか謎ですがアリジゴクを探したり、蝉はもちろんのことカミキリ虫を捕まえてたりとか(あいつ、つかむとキイキイ鳴くんすよ)、雑木林の多いところでしたから朝早起きしてクワガタもカブトムシもつかまえにいってました。虫を見分けることができるかどうか、ってのが、けっこう友達の間では重要でこっそり図書館にいって昆虫図鑑をよく読んでた気がします(ただ、蛾なんかは怖くてそのページがなかなか開けなかった)。
いまから思うとそんなふうにして、何気なく、観察するってことを訓練してたと思います。


その観察、ってのは別に目に見えるものや動植物だけじゃなくって、盗塁のチャンスだとか言葉にできないものも含まれてました。私の喧嘩の決め技はヘッドロックだったのですが、ヘッドロックをかけるタイミングも経験を通しての観察の結果、徐々にわかってきました。そして周囲の、言葉にできないなにかをひしひしと感じとることもしてたきがします。なんで怒られてるのか理由はわからないけど、観察の結果、尋常ならざる気配を感じて、怒られてることだけはなんとなく理解してたことが多かったのです。電気製品の分解なんてことをしようとしてたのですが、感電の意味も判らずにいて、でも父親の表情や言葉の強さから怒られてることは判ってやってはいけないことをしてたのだ、ってのを理解してました。
子供の頃に観察して世の中には差異があることやルール、効果を発するタイミング等さまざまなことを知って育ってきました。すくなくとも私はっすけど。


でも大人になるにつれ、子供の頃に見につけてた観察眼ってのをどんどん無くし、観察っていうことを忘れちまってた気がします。そのかわり、理屈とかいろんなファクターが脳内に入ってきました。それはそれで役に立つものだとおもいます(でも役に立たないときもあります)。
好きな分野ならかろうじて観察眼が残ってるのですが、そうでない分野はてんでダメなときがあります。相手の云いたいことが判らないときとか(さかさ箒でもしてくれたら判るんすが)真意が判らないときがあります。あるとき酒飲みついでにそんな弱音をいったら、表情や口元はにこやかで話していても笑顔を絶やさないけど目が笑っていない人っている、目はその人の本音を表しやすいから参考にすればいい、ってな助言をもらったことがあります。説得力あるな、と思って気にはしてるのですが、いうは易しいけど、なかなか難しいっす。
観察って実は難しいことなんじゃないかな、っておもうんすよ。子供の頃はできてたはずなんすけども。